富田メモの次は卜部侍従の日記

2007.04.27 Friday 02:17
くっくり


 
逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ(朝日新聞4/26)キャッシュ
2007年04月26日08時01分
 晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。
 日記で詳細をきわめるのが、昭和天皇の闘病から逝去までの記述だ。
 天皇が強い意欲を示していた戦後初の沖縄訪問は、体調の悪化で中止に追い込まれる。
 87(昭和62)年9月14日、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」。
 腸のバイパス手術を受けた天皇は国事行為や公務への復帰に執念を燃やす。しかし、ブレーキをかける卜部侍従に「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(88年2月9日)。そんなことなら、天皇が重篤な場合などに立てられる摂政を決めたらどうか、といらだちをぶつけている。
 88年9月の吐血以降の容体、肉親の悲しみも痛々しい。見舞った皇族から「助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(11月3日)。天皇の意識が遠のいていく中、意識をはっきり保たせるために侍医団は血中アンモニアを減少させる薬剤を使用していた。「今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同29日)。肉親への反応も徐々に鈍っていく。「常陸宮同妃御参 殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」(12月17日)
 翌89年1月7日、卜部侍従は、息を引き取った天皇の髪を整えひげをそる。「たんかにて御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」

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