「日本人」について考えさせられた記事

2007.03.05 Monday 14:17
くっくり


■自尊心・美意識・叡智を備える

 ≪大黒屋光太夫の見事さ≫

 現代と江戸時代の日本人を比べて、どちらが世界に通用する国際人が多かったか。私は無条件に江戸時代だったと思う。この場合、国際人というのは、国外で外国語を使ってあるいは専門家として仕事ができるという意味ではない。たとえ言葉が下手でも、宗教や文化の異なった国、異なる文明圏においても「人物」として敬意を払われるだけの人格や見識を有しているということだ。江戸時代では、地方の村の庄屋や世話役クラスの人物でも、世界のトップの社交界でさえも「人物」として一目置かれるだけの精神的な資質と人格を有していた者が少なくなかった。一例として、偶然ロシアに漂着した伊勢の大黒屋光太夫の例を挙げてみよう。
 彼は地方の商人で廻船の船頭であった。18世紀にアリューシャン列島に漂着し、イルクーツクで学者のラックスマンに認められ、やがてサンクトペテルブルクに行く。フランスの探検家ジャン・レセップスがカムチャツカの町に寄ってロシアの地方長官の家を訪問したとき、偶然その家に滞在していた光太夫を目にしている。レセップスはその旅行記に光太夫について詳しく報告し、作家の井上靖も『おろしや国酔夢譚』でその旅行記にふれている。レセップスは光太夫について、見聞を綿密に日記に記し、自己の考えを臆(おく)せず述べる堂々とした人物として伝えている。
 サンクトペテルブルクでも光太夫は、エカテリーナ女帝に2度拝謁(はいえつ)し、皇太子をはじめ上流階級の人々と交わった。ロシアのトップの社交界でも、一目置かれるだけのオーラを発していたのだ。10年ほどのロシア滞在の後、帰国の機会を得るが、彼が桂川甫周(ほしゅう)に口述した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(寛政6=1794=年)は、今日のロシアや欧米においても、18世紀のロシア研究の貴重な資料とみなされている。

 ≪地方の庶民の高い資質≫

 光太夫は、選ばれて日本から派遣された人物ではなく、偶然ロシアに漂流した一庶民にすぎない。私が驚くのは、江戸時代の地方の一般庶民が有していた人間的な資質、知的レベルの高さである。農村でも、少なくとも旧家などには、優れた人材がたくさんいた。島崎藤村は木曾路の本陣のひとつで庄屋でもあった自らの家庭について、小説『夜明け前』に詳しく描いている。江戸時代の末、木曾の山奥でも庄屋や医者の子たちが国を思い、国学や蘭学に打ち込み、日本の開国問題を真剣に論じていた雰囲気が生々しく伝わってくる。

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