反日ホンダ議員に関して日系米国人のメール

2007.02.20 Tuesday 20:48
くっくり



ここの収容所の許容量は8000名で、収容者はロスアンゼルスの近くのサンタアニタのアッセンブリー・センター(3181名)からが最も多くて他も殆どがカリフォルニアの人達で他州からは13名でした。
しかし他の収容所閉鎖や日米交換船で帰つた人達など、それに他の収容所へ移つたりしてその数字は一定していません。多いのは7567名と記録があります。

彼はSan Franciscoの東にあるWalnut Grove(ウォールナッツ グローブ)で1941年の6月に生まれて、翌年、1歳にならない時に強制的に収容されております。

強制転住は地域によつて違いますが1942年の4月からアッセンブリー・センターに移動させることが本格的に執行されました。
なおこの戦時強制転住収容所には1942年の8月27日から収容が始まつていました。
このアマチ収容所に収容されていた人達は二年しないうちに収容所から出て太平洋岸の州の制限地区以外の都市へ仕事を探して移り住みはじめました。
この収容所からも日本帰国を希望してカリフォルニアの北部にあつたTule Lake(ツールレーク)収容所へ移動しました。

戦後居住地の制限が解かれたのですが元住んでいた土地には帰らずにカリフォルニアの各地へ移り住むことをしたのです。
その理由は成人のアメリカ籍の子供が居る家族は別ですが、彼の家族のように元住んでいた所で彼らが所有していた土地や家(外国人の土地所有権を法が認めていなかつたからです)がなかつたからです。日本人が収容される前に居たところは田舎で以前していた仕事も無い、商売も始めるには簡単にできないなどです。それで仕事が探すのに便利な大きな町に行つたのです。San Joseは戦後に大きくなつた都市です。

10ヶ所有つた収容所で最初に閉鎖されたJerome収容所は1944年の6月30日は特別ですが他の殆どの所は1945年11月末までに閉鎖されております。
ただTule Lake(ツールレーク)収容所は日本への帰国を希望された日本人と国籍放棄した日系アメリカ人(日本人の子供達でほとんど未成年)が送還されるまで収容所を使用しておりました。それでも1946年3月20日には閉鎖されております。

次に彼のNetでの言語表記のことですが。

彼の選挙地区にはそれらの言語を用いる選挙権を持つ人達が少なくありません。英語の教育を受けてなくてスペイン語だけの人達や70年代に来たヴェトナム語だけの人達が多くいるからです。

[7] << [9] >>
comments (28)
trackbacks (0)


<< 「アンカー」李英和教授の解説&総連の動画
続・反日ホンダ議員に関して日系米国人のメール >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]