阪神淡路大震災から2年半後にこんな本が出版されていた

2020.01.16 Thursday 19:22
くっくり


 私は当時、大阪市天王寺区在住でした(震源からの距離は45kmほど)。
 ドーンと突き上げるような音と振動で目覚めました。
 畳の上に布団を敷いて寝ていたのですが、足下に置いてあったカラーボックスが倒れて、足を直撃(布団の上からだったのでケガなし)。
 暗闇の中、「これは普通の地震やない。死ぬかもしれん」と恐怖に打ち震えつつ、頭の近くにある大きなタンスを一生懸命両手で押さえたのを今でも鮮明に覚えています。
 東大阪市(震源から50kmほど)に住んでいた同僚は、高い階に住んでいたこともあり揺れが激しく、「ゴジラみたいな怪獣が襲ってきた」と本気で思ったそうです。

 最初の地震が収まり、NHKを付けて、部屋を片づけながらニュースを見たけど、この時点ではまだ大阪市内(在阪テレビ局が動ける範囲)の被害状況しか報道されておらず、神戸方面の震度は空白になっていました。
 当時務めていた会社はシフト制で、私は昼からの勤務だったので、仕事に差し支えると思い、二度寝しました。
 ところが午前10時半頃だったか、大きな余震が来て、また飛び起きました。
 再びNHKに合わせて、その時、初めて神戸方面や淡路島が大変なことになっていると知りました。
 神戸や西宮や芦屋あたりに住んでいた同僚も大変多く、彼らの安否が心配になりました。

 その時点で電車の多くは止まっていましたが、私は幸い自転車通勤でした。
 早めに出勤したところ、朝番で来ることができていた人はごくわずか。
 各社員に安否確認の電話をしていきましたが、昼頃からはもうほとんど通じませんでした。
 その後の数日間で少しずつ安否が判明していき、最後の1人の安否が確認できたのは、震災発生から約1週間後のことでした。
 幸い亡くなった人は一人もいませんでしたが、神戸方面の多くの人が長い避難生活を強いられることになりました。
 (後で分かったことですが、家屋倒壊率、死亡率が最も高かったのは神戸市ではなく、それぞれ芦屋市と西宮市でした)

 ただ、彼らは皆、全くと言っていいほど悲壮感がありませんでした。
 もっと言えば、「ネタ」にして笑いを取る人もたくさんいました。
 例えば、西宮市在住の同僚が、退社時に「大阪で銭湯寄って帰るねん〜(笑)」と洗面器など一式が入ったバッグを見せてくれたり。
 関西人ならではの「したたかさ」とでも言いましょうか、どんな時でも笑いに変えて場を盛り上げようとする独特の気質があります。

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