【過去】子供たちに教えたい柴五郎(付:「日本国紀」)

2019.02.23 Saturday 00:50
くっくり



 堤堯さんもお書きの通り、「コロネル・シバ(柴中佐)」と日本将兵が義和団の乱で見せた奮闘ぶりは、日英同盟へと結びついていくことになります。

 19世紀後半のイギリスは非同盟政策、いわゆる「栄光ある孤立」政策を取っていましたが、やがてヨーロッパ外交における孤立が深刻化し、そうも言っていられない状況になりました。

 そんな折り、義和団の乱で総指揮を取ったイギリス公使クロード・マクドナルドは、ともに戦った柴五郎と日本将兵の勇敢さ、規律正しさに心を大きく動かされます。

 また、イギリスは「ロシアの南下政策を牽制したい」という同じ目的を日本と共有していました。

 そこで、マクドナルドは日英同盟の締結を強く推進しました。
 その試みは短期間で実を結び、第一次日英同盟は、1902年1月30日に調印され即時に発効しました。

 あの「大英帝国」が、日本と軍事同盟を結んだのです。
 明治維新後からわずか30数年しか経ていない、極東の小さな近代国家の日本とです。
 これは当時としては非常に画期的なことであり、世界は驚愕しました。

 教科書的には、日英同盟締結の項に柴五郎の名前は出てきませんが、実は影の立役者だったんですね。

 柴五郎と日本将兵が見せた武士道精神と、イギリスの騎士道精神。
 これらには相通じる部分も多かったのではないでしょうか。

 当時のイギリス人が残した柴五郎の評価を見ると、自然とそのように思えてきます。

 柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人、B・シンプソンは、このように日記に記しています。

【数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。〈中略〉 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる】

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