【過去】子供たちに教えたい柴五郎(付:「日本国紀」)

2019.02.23 Saturday 00:50
くっくり



 義和団撃退後の北京でも、再び同様の事態が起こった。くらべて柴五郎は掠奪を禁じる命令を発し、日本軍の規律は称賛の的となった。籠城戦の功績と合わせて、柴五郎には各国から勲章が贈られている。イギリス公使マクドナルドは、ともに戦った柴と日本兵の勇敢・礼節に感動した。首相セシルに日英同盟の構想を説き、のちの同盟締結の推進者となった。

 イギリスはロシアの南下政策に中東で対応するのが手一杯で、アジアでこれに対応する格好のパートナーを日本に見つけた。つまり、柴五郎は日英同盟のキッカケを作った。柴五郎は会津の人。その人となりは『ある明治人の記録――柴五郎大将の遺書』(石光真人編・中公新書)image[]に詳しい。】

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[画像はWikipedia>義和団の乱より(8カ国の連合軍の兵士)]

 これを読んだのをきっかけに、柴五郎について自分なりに調べてみました。

 ……戊辰戦争の頃、柴五郎はまだ幼い少年でした。

 会津城下にいた母や姉妹など女性の家族は自刃し、別の場所にいた五郎は難を逃れたものの、一家は五郎ともども陸奥国斗南(青森県むつ市)に流され、そこで大変苦しい生活を送ったそうです。

 その後、五郎は青森県派遣の給仕に選ばれたのをきっかけ東京に行き、1873年、陸軍幼年学校に入学(「坂の上の雲」でおなじみの秋山好古と同期)、軍人への道を歩んでいくことになります。

 そこから義和団の乱に遭遇するまでの経歴は、Wikipediaあたりをご覧下さい。

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