「文在寅は怖い」と韓国人が言う理由

2017.05.05 Friday 01:41
くっくり



 2004年、盧武鉉政権下で市民社会主席秘書官だった文は、北朝鮮で実施された離散家族面会に母とともに参加し、叔母(母の妹)と面会しました。

 この面会はさまざまな点で釈然とせず、北朝鮮と盧武鉉政権が工作次元で秘密協議をしたのではないか、と疑われています。

 もし、北朝鮮側が文を大統領の最側近の実力者だと考え、叔母を探し出して面会を斡旋したとしたら…。

 そもそも、北朝鮮にいる叔母は、韓国避難後に生まれた文の顔も知らないのに、なぜ面会申請名簿に文の名前が入ったのか。

 また、韓国政府は離散家族面会において高齢者を優先するという原則を決めていますが、文は申請書類に自身の年齢を23歳も多い74歳と、虚偽記入していたという話もあります。


 文在寅の経歴を見ると…

 子供時代は、父が商売に失敗したため極貧生活を送っていました。
 が、出来が良かったので、1972年に、特待生として慶煕大学へ入学。

 1974年からは、朴正煕政権に反対する学生運動に加わります。
 1975年4月に逮捕され、懲役8カ月、執行猶予1年の判決を受けます。

 もっとも、文は学生時代はそれほど過激な活動家ではなかったようです。

 1980年、司法試験に合格。
 司法修習後、釜山で盧武鉉と一緒に弁護士事務所を開き、労働争議や学生運動などの弁護に当たります。

 2003年の盧武鉉政権成立後は、大統領首席秘書官、秘書室長として盧武鉉政権の反米親北政策を支えました。
 退任後、不正疑惑で捜査を受けて盧武鉉が自殺した時は、葬儀委員長を務めています。

 その後、野党国会議員となり、2012年の大統領選挙に出馬して朴槿恵候補と激しく争い、48%の得票で惜敗しました。


 70年代の韓国学生運動では、親北反米はタブーでした。
 大多数は「反共自由民主主義」という枠組みのなかで、朴正煕政権の民主主義制限を批判していました。

 それが80年代に入って、学生運動は急激に親北反米化していきます。
 そうなった理由として、北朝鮮の対南工作の転換がありました。

 北朝鮮は70年代までは、共産主義体制の優位性宣伝を中心に置いていました。
 ところが、朴正煕政権が高度経済成長に成功した結果、南北の経済力は70年代はじめに逆転し、80年代になると大きな差がつきました。

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