朝鮮総督府官吏だった野伏翔監督の父「気を遣っているのはいつも日本人の側だった」

2017.04.20 Thursday 01:04
くっくり


 野伏翔さんは、1982年に劇団夜想会を設立。
 これまでの演出作品は50作品を超え、拉致問題をテーマにした舞台劇『めぐみへの誓い』は全国各地で上演されています。

 野伏さんによると、こうした保守系の作品にマスコミは冷淡だそうです。
 『めぐみへの誓い』は、私の地元・大阪でも今年2月に上演されたそうですが、メディアで取り上げられたことは皆無に近かったと思います。
 拉致問題に敏感である(と自負する)私ですら、今回の記事を書くためにネットを検索していて、偶然知ったぐらいですから。


 今日、特に紹介したいのは、野伏さんのお父さんの話です。
 お父さんは、朝鮮総督府にお勤めだったそうです。
 そのあたりのやりとりを引用。


 引用ここから_________________________________

野伏 祖父が職業軍人だったんです。祖父は「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」などといわれた永田鉄山と幼年学校、陸軍士官学校の同期だったんです。永田からの手紙などうちに普通にありましたからね。ですから、そういう子供のときの環境はありますね。
 父親と母親は朝鮮からの引き揚げ者で、父親は総督府、母は馬山から帰ってきてお見合いで結婚したんです。

井上 朝鮮総督府にお勤めになっていたんですか。それは超エリートじゃないですか。

野伏 父は下っ端のほうだったらしく、エリートでは決してありませんでしたが、祖父はシベリア出兵後の軍縮で軍人をやめてからも京城帝国大学に就職、軍服を着たまま、日本史と戦史を教えていたそうです。肩書きは日本史の講師。さぞ皇国史観だったことでしょう。

井上 いや、それはすごい(笑)。

野伏 うちの親父は、小説家を志望する文学的な人で実際、何冊か小説を書いていました。恐らく軍人である自分の父に対して、ある種の反抗心があったと思うんです。ただ、戦後のどさくさの中のそれも引き揚げ者でしたから、食べていくので精一杯という時代だったのでしょう。小説家という夢は諦めざるを得なかったようです。
 その父からはずいぶんいろんな話を聞きました。朝鮮人というものはどういう民族だったのかといった話もよく聞かされました。当時の朝鮮総督府には上司にも朝鮮人がいっぱいいて、下にもたくさんいた。違和感など全然なかったし、差別など、どちらかというと気を遣っているのはいつも日本人側だったといいます。すごくいい人も確かにいたそうです。

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