続・日本側当事者の証言から見る慰安婦問題
2016.12.22 Thursday 01:47
くっくり
しかし開設が認められなくても前述のとおり、ダンス・ホールという務め口があったので、不幸な女性達はやむなく身を落とすこともあったであろうし、それは自発的な行為でもあったので、強制連行などあり得ない。
ちなみにマニラの在留邦人の話によると、フィリピンの女性は日本人との結婚を望んでいたとのことであった。
というのは、フィリピンの男性は結婚後も浮わ気をするが、日本人は絶対に浮わ気をしないと信じていたからであると。
ともあれ、私は広域警備のため分散配置されていた各部隊本部に無線分隊を派遣していたので、ときどき視察に出向いていた。そのため街道筋や各駐留地の実情を知ることができた。
各無線分隊は、駐留地の住民達と仲よく交流していたし、民家で何かお祝い事があると、招かれてご馳走になっていた。
だから通信隊本部の勤務より出先の勤務を希望するほどだった。
師団は後日レイテ島に移動し、米軍の上陸を受けて玉砕した。
しかし、同島北側のマスバテ島とサマール島に派遣されていた各無線分隊と、歩兵第九聯隊下士官候補者隊は米軍に投降して生還できた。
生き残った戦友達の話によると、米軍上陸以前のレイテでは裕福な家庭から「娘と結婚してくれ」と、誘いを受けた兵士が、何人もいたとのことである。
要するに、それほど日本兵はフィリピン人に信頼されていたのである。
■陳家拓さん
【元森集団(ビルマ)副官部。当時名・春岡拓次郎】
ラングーンには慰安所が約三〇軒、将校専用の醉香園は日本人慰安婦三〇人位で最高級、海軍専用では竹の家と黒金荘の二軒、台湾ピーが約四〇人。
朝鮮人慰安所は最も多く、アリラン等一二〜一三軒。南国会館等の広東ピーが七〜八軒。
其他タイピー、ビルマピーが数軒。
十八年に入り、ビルマ方面軍が編成され、十五軍はマンダレー北約六五軒の高原地メイミヨウに前進、慰安所も三分の一が追随した。
メイミヨウには日本人慰安所が一軒、二〇余人が有り、下士官兵も入る事が出来たので一番の人気処。
十九年に編成された三十三軍(雲南方面担当)の管下には台湾ピー屋が一軒ラシオに至り、二〇余人でした。
勿論一番安全なラングーンに在る慰安所も比較的危険な前線の慰安所と相互に交替される。
慰安所の交替は殆ど軍用トラックを使ひ、慰安婦達には軍服着用と戦斗帽を被る事になって居り、外観的には女性とは判別出来ない様に要求されてゐた。
[7] << [9] >>
comments (3)
trackbacks (0)
<< ロシア側の言い分は「領土の話をする前に安全保障と主権の問題をどうにかしてくれ」…青山繁晴「虎ノ門ニュース」
沖縄に改めて思いを馳せる 「ぼくらの哲学」 >>
[0] [top]