続・日本側当事者の証言から見る慰安婦問題

2016.12.22 Thursday 01:47
くっくり



 第一に、慰安所という名称は当時あったが、慰安婦などという名称はなかったことである。
 不幸な慰安所務めの女性を何と呼んだらよいのか、その本質は私娼であったが、やむなく兵士達は彼の女達をピーと呼んでいた。
 この呼び方は師団が支那事変で出征し、南京を攻略して間もなく中国人の経営する慰安所が解説されたとき、既に兵士達はそう呼んでいたが、じつは、これは以前から本国での呼び方でもあったのである。

 ちなみに、この慰安所を外国人は何と呼んでいたかを紹介すると、南京攻略後に現われた慰安所を「南京安全区国際委員会」の委員長となったドイツ人ジョン・ラーベはドイツ語の日記に「売春宿」(慰安所務めの女性を「売春婦」)と記しており、同日記の英訳版も同様に訳している。
 ところが中国語版は「軍妓院」(「軍妓」)と訳し、それが軍に所属するものであることを明記しているが、こうした名称は戦国時代後に使われ始めたのであり、日本にはなかった伝承を故意に中国の伝統と混同させて表現しているのである。

 第二に、慰安所の設置は前述のとおり、日本軍が設置したのではなく、日本人にせよ中国人にせよ民間業者が開設した施設であった。
 したがって日本軍としては、その設置を認めるかどうかは戦況その他種々の条件を勘案して決めていた。
 だから設置というよりは、誘致が適切かどうかを考慮していたのである。
 事実、その誘致を不適切と認め、設置を厳禁した事例がフィリピンにはあったのである。

(中略)(マニラ市街の繁華街エスコルタ通りに)たまたまダンス・ホールがあったので、中に入ったところ、一階はホールだったが二階は売春宿であることを知った。
 ダンサーはフィリピン人が多かったが、チャイナ系やアメリカ系もいた。
 後で聞いたところによると、こうしたホールは沢山あるとのことだった。
 帰隊してから隊付き軍医と相談したが、ダンス・ホール務めの女性を検診するわけにはいかないし、慰安所はまだ開設されていなかったので、兵士達には公用以外には外出させないこととした。
 もっとも兵士達は有線、無線とも終日終夜交替勤務で通信連絡に携わっていたので、休日に外出させる余裕はなかった。

(中略)フィリピン人の八〇パーセントはクリスチャンである。
 だからイスラム教徒とは違い、慰安所を開設すれば募集に応じたであろう。

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