続・日本側当事者の証言から見る慰安婦問題

2016.12.22 Thursday 01:47
くっくり


 そういうことも今、思い出します。
 最近、敵の捕虜になって非常にあわれな恰好になった慰安婦の写真がありまして、それらしい説明がつけてありますが、あれは部隊全体が敵に包囲されて一緒に捕虜になった時の写真だと思います。
 私の経験では、だんだん戦況が悪くなりますと慰安婦はまっ先に傷病兵と一緒に後方に下げましたね。
 慰安婦はそういう具合に皆に大事にされて、当時としては彼女達から恨まれることはなかったと思います。
 兵隊達は感謝して大事にしていたのが実態だと思います。
 

■星野正信さん
【元船舶通信聯隊第三大隊】

 ミンダナオ島のダバオは日本人が苦労して開拓し、麻の栽培で発展した人口約二万人の町であった。
 ニューギニヤ及びソロモン方面作戦の前進基地として沢山の部隊が集結していた。
 街の裏通りに五軒の慰安所(ピー屋)があった。
 日本人、朝鮮人、台湾人、フィリッピン人等、それぞれ十人前後の若い慰安婦(ピー)がいた。
 慰安所の家屋はダバオの街では中位の大きさ。
 二階建の家が多く、其の二階で営業していた。
 部屋は四畳から六畳位の個室であった。
 営業時間は朝の九時頃から夕方まで(各部隊の兵士が外出できるのは日曜日だけ、朝九時〜五時まで時間厳守)。
 日本人だけの慰安所は将校専用であった様だ。

 慰安所では兵士が慰安婦を選び三十分五十銭、一時間一円であった。
 兵士の月給三円二十銭では決して安くなかった。
 料金を先ず慰安婦に渡す。
 慰安婦は管理人(民間人、高令の男か女)に料金を渡し突撃一番(コンドーム)を受け取って自分の個室に兵士を案内する。
 終ったら慰安婦が消毒液で兵士を洗った。
 顔見知りの兵士を見るとかなり強引に勧誘していた。
 平日は少数の船員と軍属だけの様だった。
 毎日毎日日本兵の相手をさせられ地獄であったと言う話は、日本からの保証金目当ての大ウソとしか思えない。

 慰安婦は一週間ごと位に軍医から性病検査を受けていた様で、性病や生理の時は自由に休業していた様だ。
 料金は管理人と慰安婦と五分と五分と聞いている。

〈軍の関与について〉慰安所の家は軍が斡旋していた様だ。
 あれだけの家と内部の改築は業者ではなかなか無理だと思う。

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