続・日本側当事者の証言から見る慰安婦問題

2016.12.22 Thursday 01:47
くっくり


 中国の民間人でも、中国の慰安婦と遊んでいた人達も大勢いたし、阿片窟も営業していたのである。

 県庁所在地以下の市や町に駐留する日本軍兵士は、慰安所などないから、生活に困って、自宅で内緒に売春を働いている中国婦人を、斡旋人を通じて、一握りの兵隊が多少の危険を犯して、利用していたに過ぎなかったのである。

 第二中隊が駐留していた掖県には、朝鮮人の慰安婦が一人いた。
 民家に寝泊まりして、兵隊相手に売春をしていたが、なんらの拘束も、不自由もなく快活に生活をしていた。
 仲の良い兵隊もいたはずである。
 何時でも個人の自由で帰国できた筈であるが、当時朝鮮に帰っても生活できなかっただろうから、慰安婦をしていたに過ぎない。

 三光作戦などという作戦は、当時日本軍人の誰もが知りもしないし、聞いたこともない。
 

■小島幸雄さん
【第六十二師団独立歩兵第十三大 第一中隊上等兵】

 昭和十七年夏頃山西省太原市に糧秣(りょうまつ)受領等に山の中からトラックで出てゆきますと二時間余りの外出が許可され、彼女達のいる慰安所へ行くのが何よりの楽しみでした。
 その為ショートタイム(せいぜい三十分以内)朝鮮女性が当時の金で一円二十銭、中国女性が八十銭でした。
 日本女性は将校専門で兵隊はその地域に出入出来ませんでしたので、私は専ら朝鮮の彼女と遊びました。

 突撃実行する前に必ず前金で金を拂(はら)います。
 その他に彼女の機嫌を取る為に金の他に下給品のタオルとか花王石鹸等を持っていって彼女に与えました。

 彼女達は夫々(それぞれ)京子とか花子とか都とか兵隊の覚え易いように源氏名で呼んでいました。
 假令(たとい)三四カ月に一回でも馴染が出来て、兵隊達は寧ろ彼女達に感謝の気持ちを持って好意的に接していたものであります。
 どの兵隊も懐中には幾らも金を持っておりますのでタダで遊んだような兵隊は私の知っている限り一人もおりません。
 又若(も)し一人でもそのような不心得の者がいた場合は彼女達が憲兵隊へ訴えましたら首実検をされその兵隊は大体一週間か十日の重営倉に入らねばなりません。
 上記のことについては外出の前に週番下士官から念を入れて注意されたものです。
 又彼女達も商売上手というか朝鮮の民謡(アリランの唄等)を歌って聞かせて呉れまして、彼女達もそれなりに楽しく働いていたようで、決して泣きの涙で過していたようには思われません。

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