朝日新聞“南京大虐殺”虚報と東史郎のニセ証言
2016.12.03 Saturday 03:13
くっくり
平成5年4月
橋本光治が、東史郎と下里正樹(「東日記」等を土台にしてを『京都師団関係資料集』などを執筆。共産党機関紙「赤旗」の元編集員)と青木書店の三者を名誉毀損で東京地裁に提訴。
東は反論するが、そこでもでたらめさが浮き彫りになった。
東は路王墳を持ち出し、「私の日記には、他の人のことだけでなく、自分の悪いことも全て書いてあり、真実なんです」と述べたが、『第三中隊史』で1人を殺したことが『わが南京プラトーン』では2人に変わり、東京地裁での証言では3人に変わった。のちの高裁の証言では4人に増えた。
※橋本光治分隊長が東史郎を名誉毀損で訴えた裁判については、Wikipedia>東史郎>名誉毀損裁判のほか、脱・洗脳史講座>日本兵の凄さまじい残虐 その2の【7 南京攻略戦に参戦した兵士の「日記」より】もご参照。
平成6年12月
東が訪中。
平成7年
アメリカのABCが東を取材。
平成8年4月
東京地裁で名誉毀損訴訟の判決が下り、手榴弾での殺害は到底実行可能性があるとは認めることはできないと判定された。また、それをもとに書いたという陣中メモは存在しない、日記は帰国後大幅に手を加えるなどをして作成されたもの、と判定された。
東は敗訴し、そのことは朝日も報道したが、その紙面はそれまでの5分の1だった。
平成9年
アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』が東を「南京における彼の罪を公に認めた最初の旧軍人」と紹介し、「強姦の最中は女性とみるが、殺すときは豚かなにかのようだった」といった証言も取り上げられた。
平成10年
中国系アメリカ人が南京事件のシンポジウムを企画したとき、ゲストに東を呼ぼうとしたが、「3人を殺した戦争犯罪者」として東はアメリカから入国を拒否された。
平成10年秋
東が訪中。
平成10年12月
東京高裁判決。中国のメディアが大挙して押し寄せる。霞ヶ関の記者会見場を占拠するほどだった。
以降、東に関する著作も『東史郎訴訟案と南京大虐殺の真相』『東史郎日記』『東史郎日記図証』『訴訟記録』と次々刊行される。
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