朝日新聞“南京大虐殺”虚報と東史郎のニセ証言
2016.12.03 Saturday 03:13
くっくり
そもそも東は手榴弾での殺害を見ていたと言うが、そのようなことを黙って見ている日本兵がいるとは考えられず、作り事だからこう書かざるをえないのだと戦友たちは批判した。
新たな疑惑も起きた。第三中隊は南京郊外で捕虜を護送し、捕虜は上海捕虜収容所などに入れられるが、『わが南京プラトーン』には、ほかの中隊へ2〜300人ずつ割りあてられ殺された、と記述されていた。また、第三中隊は難民区を掃蕩したとも記述された。
誰もそんな記憶はなかった。難民区の担当は第三十三連隊で、記憶にないのは当然。
こういった記述はまだ反論できるからよかったが、故人となった戦友が殺人鬼や強姦魔と記述されている箇所は直接に反論できない。このため公然と批判する戦友が現れた。
昭和62年12月14日
朝日新聞が、【「深く反省」と元兵士の東さん 南京で大虐殺50周年追悼式】の見出しのもと、南京に赴いた東が報じられた。記事を書いたのは同行した本多勝一。
東は「五十年前のけさ七時に南京に入城した。そこで大虐殺が行われた」と語り、中国側は「東さんが自らの体験によって日本軍国主義を告発する勇気に心から尊敬する」と応じたという。
※このように昭和62年7月〜12月のわずか半年の間で朝日新聞は6度も報じました。「『南京大虐殺』を証言した兵士が初めて現れ、南京まで行って謝罪した」というストーリーができ、「南京事件」は事実のようにされてしまったのです。
平成元年
『南京事件 京都師団関係資料集』が刊行され、『東日記』が収められた。『東日記』は『わが南京プラトーン』より詳しく記述されていたが、それがあだとなって、東は後に訴えられることになる。
中国人を殺した「西本」が、『東日記』では「橋本」と変わっていた。橋本という人物なら実在する。東の所属する分隊の橋本光治分隊長である。
橋本光治は、敗戦の年に京都を離れ、中隊会が初めて開かれたとき出席したものの、それ以降出席することはなかった。東は『第三中隊史』で橋本を悪しざまに書いたが、抗議はなく、亡くなったものと思って殺人犯と書いたのだろう。
しかし橋本は東京で健在で、知って驚いた。そんな覚えは全くない。そもそもやや小柄で、人間の入った袋を放り投げる力はない。橋本にとって東は部下の一人で、京都を離れて数十年ぶりに訪れたとき住所を頼りに東の家を訪ねたほどであったが、凶悪な殺人犯とされては名誉毀損で訴えざるをえなかった。
[7] << [9] >>
comments (5)
trackbacks (0)
<< 朝貢外交といえば小沢訪中団でしょ…Tweetまとめ16.11.16〜16.11.30
露への投資を嫌がる日本企業・米国防長官「いずも」視察・北への独自制裁強化など…青山繁晴「虎ノ門ニュース」 >>
[0] [top]