朝日新聞“南京大虐殺”虚報と東史郎のニセ証言

2016.12.03 Saturday 03:13
くっくり


ちなみに『第三中隊史』が作成される時、50人が寄稿するので50分の1でよいのに、東は1人で4分の1も書いた。生来の作家志望が何十年かして頭をもたげだしたのだが、それだけでなく肥大化したと戦友は受け止めていた。

昭和62年7月8日
朝日新聞が、【「虐殺」証言に脅迫電話 旧日本兵3人が訴え】と報じた。
証言した東に脅迫電話があったという記事。
日記に事実が書かれているのならそのようなことも言えようが、手榴弾をつけて放るなど自殺行為で、ありえない。朝日のなすべきことは日記の記述が事実かどうか明らかにすることであり、問題のすり替えだと戦友たちは感じた。

昭和62年8月5日
朝日新聞が、「テーマ談話室 戦争」で東の投書を取り上げた。
「朝から晩まで電話の連続攻撃、非難、ば声の怒声に妻はおののいた。私はひるまず、いちいち応答した。私の説明を聞いてくれた人々のほとんどは納得してくれた」
「われわれはこそくで卑きょうであってはならない」
東はこう書き、ここでも証言は正しいものとされ、読者は南京事件を隠そうとする勢力と戦っている兵士がいると受け取ることになった。

昭和62年10月16日
朝日新聞が「風車」欄で、また東史郎を取り上げた。
東が「テーマ談話室」に投書したことにより「脅迫より激励の手紙が上回るようになった」と紹介し、東は南京事件50年目の12月に「南京事件調査研究会」と南京を訪れて犠牲者への弔意を尽くす予定であるとも報じた。
「南京事件調査研究会」とは、本多勝一たちが昭和59年3月に発足させ、その年の12月に南京を訪れ、この年には2度目の訪中を予定していた。

昭和62年12月8日
朝日新聞が、【近く中国へ謝罪の旅】という見出しで、東の顔写真を掲載、東は刷り上がったばかりの『わが南京プラトーン』を携えて南京に行く、と報じた。
『わが南京プラトーン』とは東が陣中メモをもとに書いたものと言われ、これが刊行されたことを宣伝する記事だったが、『わが南京プラトーン』の内容は東のでたらめさをはっきりさせるばかりだった。
『第三中隊史』では東は路王墳で1人の中国人を斬ったことになっていたが、ここでは2人に変わっていた。
また、手榴弾をつけて放り込んだのは「西本」であると明らかにされたが、「西本」という兵隊は中隊にはいなかった。

[7] << [9] >>
comments (5)
trackbacks (0)


<< 朝貢外交といえば小沢訪中団でしょ…Tweetまとめ16.11.16〜16.11.30
露への投資を嫌がる日本企業・米国防長官「いずも」視察・北への独自制裁強化など…青山繁晴「虎ノ門ニュース」 >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]