豊田有恒さん、閔妃暗殺事件を語る
2016.09.06 Tuesday 01:48
くっくり
*3 高宗とともに殺害現場にいた閔妃の実子・純宗は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と禹範善が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告しており、また禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と自らが閔妃を殺害したと自白しています(1907年8月31日付・往電第31号)。
暗殺の直後、大院君は閔妃の王妃としての称号を剥奪している。
閔妃の名誉回復は、のちに日本人の手でなされている。
日本が主導して暗殺したものなら閔妃の不適格を立証するはずだが、王妃としての尊厳を回復しているのだ。
また、犯人と目された三浦梧楼も一旦は収監されるのだが、のちに釈放されている。
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[晩年の三浦梧楼]
犯行の首謀者と考えられる禹範善は日本へ亡命して日本婦人と結婚するが、李朝が放った刺客によって暗殺されている。
この事件には後日談がある。
禹の長男の長春(チャンチュン)は、日本人の援助を受けて東京大学を卒業し、戦後に帰国してから韓国の種苗学(しゅびょうがく)の父と仰がれ、教科書の副読本にも載る偉人となる。
現在、韓国で栽培される野菜の品種のほとんどが、禹長春が日本からもたらしたものである。
閔妃の死後2年、日清戦争の結果、清朝の勢力が朝鮮半島から後退し、代わって日本のプレゼンスが拡大する。
朝鮮は史上初めて、帝国を称する。
東アジアの歴史では、帝国は中国の王朝だけであり、また皇帝は中国にしか存在を許されなかった。
1897年から1910年までの僅か13年に過ぎなかったが、朝鮮の王は初めて皇帝を名乗ることができた。
しかし、帝国、皇帝と名乗ってみても、旧来の李朝の実体はなにも変わらなかった。
こうして歴史は日韓併合へと動いていくのだが、ここでは朝鮮王室の処遇が問題になる。
いわゆる植民地史観では、いかにも日本が圧政を敷いたかのように扱われるが、朝鮮王家の人々が日本の皇族と同様に親王待遇となったことを見れば、併合の実体が明らかになる。
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[1910年の日韓併合の記念ハガキ。明治天皇と純宗皇帝の御真影が並ぶ位置と大きさに注目。朝鮮人に敬意を払い、純宗皇帝の方が中央に置かれています。出典は「THE NEW KOREA―朝鮮(コリア)が劇的に豊かになった時代(とき)」image[]。書評こちら]
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