豊田有恒さん、閔妃暗殺事件を語る

2016.09.06 Tuesday 01:48
くっくり



 1895年の当日、三浦梧楼が抜刀して王宮に斬り込んだことは間違いないが、騒乱状態のなかで、誰が直接に閔妃に手を下して殺害したのか、真相は藪のなかである。
 日本側からは守備隊、警官、大陸浪人などが加わり、また朝鮮側からは親衛隊、訓練隊、警吏などが宮殿に乱入している。
 特に軍人の閔妃への反発は激しかった。

 朝鮮から依頼されて日本は洋式軍事訓練を行っていたのだが、これには特権的に貴族の子弟が選抜され、別枝軍(ビヨルグン)と呼ばれて優遇されていた。
 しかしその費用は、一般の軍人の給米を削ることで捻出されたという。
 なかには、給米に砂が混じっているという悪質なケースもあったという。

 兵士たちの不満は日本人、そして閔妃に向けられる。
 ただでさえ、儒教に基づく極端な文治主義から、軍人蔑視の風潮がある。
 軍部の不平不満は頂点に達していた。

image[150821-93niseminpi2.jpg]
[こちらも閔妃の写真として広く伝えられてきたものの、今日では偽物とされています。特にこの写真は、日本人が王宮に乱入した時、この写真を持って顔を確かめて殺害したということになっていました。ところが、この写真が閔妃でないのであれば、乱入した日本人はどうやって閔妃の顔を見分けたのでしょうか?]

 閔妃の遺骸は慶福宮(キヨンボツクン)の北で、石油をかけて焼かれた。
 これは日本側が主導したものだったらしいが、実際の犯人は不明なままだった。
 高宗(こうそう)*1も閔妃の実子の純宗も現場に居合わせたのだが、日本の統監に向かって高宗が口にした言葉が、記録に残されている。
 「わが臣僚のなかに不逞の徒がいた」*2という。

 また、実子の純宗は、6名の朝鮮軍人が逮捕されたのちに釈放されたことに関して、特に禹範善(ウボンソン)を「現に朕が目撃せし国母の仇」*3と証言している。
 純宗が実母を殺した犯人の名を枉(ま)げて言うとも思えない。

*1 高宗は閔妃の夫。李氏朝鮮の第26代王。興宣大院君は高宗の父。
*2 高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べています(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告)。

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