なぜ元慰安婦は核心部分で“間違う”のか?
2016.03.14 Monday 02:07
くっくり
となると、「3年間」とは、例によって「足かけ3年」という意味で言っているのでしょうか。
それでも1944年〜1946年だから、やはり戦争終わってますよね。
但し、彼女が1946年まで台湾にいたのは事実のようです。
台湾にいた慰安婦たち(日本人・朝鮮人)は、敗戦後、現地の日本人らとともに引き揚げ船などで帰国していきますが、優先されたのは軍人軍属で、民間人の帰還は1946年2月21日からでした。
一見すると、「1944年から1946年まで『足かけ3年』、慰安婦として過ごした」という主張と辻褄が合っているようにも見えますが、じゃあ、旧日本軍人が帰国していく中、李容洙氏は誰を相手に仕事していたのでしょう?
(これは先ほどの金福童氏にも言えることです)
一方、蒋介石率いる国民党軍が、米軍の支援のもと最初に台湾(台北)にやって来たのは、1945年10月5日。
その時は先遣部隊で80人規模でしたが、10月17日には国民党軍22,000人と官吏200人が米軍艦船に分乗して上陸、その日のうちに台北に進軍しています(こちら参照)。
もしかしたら、敗戦後は国民党軍を相手に仕事していたのでしょうか?
……などと考えつつ、さらに調べてみると、なんと!
李容洙氏は、実は2007年頃から、慰安婦にさせられていた期間を修正し、「3年間」→「2年間」と短縮して話すようになっていました(「だんこのブログ」さま 参照)。
なるほど、これなら矛盾を指摘されても言い訳が可能ですね。
「1944年から1945年まで『足かけ2年』、慰安婦として過ごした」ということで。
あと、李容洙氏は、2015年の米国での講演で、こんな話をしています。
「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた」(朝鮮日報2015/4/28)
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