なぜ元慰安婦は核心部分で“間違う”のか?
2016.03.14 Monday 02:07
くっくり
訴状でも、これと同趣旨の記述がされています。
ところが、朝日新聞が、金学順氏を「挺身隊として強制連行された被害者だ」という大誤報をし、西岡力氏がそのことを『文藝春秋』1992年4月号で指摘した後、彼女は証言をこのように変えました。
「養父に連れられて北京に行き、市内の食堂で昼食を取っていた時、日本軍将校に襲われ、連行された」(1993年10月「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 編)
原告は訴状で、自分にとって有利になる事実は全部書くはずです。
なぜ金学順氏はこれを訴状に書かなかったのでしょうか?(棒)
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[2015年5月8日、元朝日新聞記者の植村隆氏の講演に現れた李容洙氏]
現在おそらく日本で一番知られている李容洙氏(1928年12月13日生まれ。朝鮮新報による)も、証言がころころ変わることで有名です。
「強制連行」された時の状況だけ見ても、これだけ変遷しています。
(1)1992年:挺対協への申告
「国民服と戦闘帽の男から赤いワンピースと革靴をもらい、嬉しかった。即座についていった」
(2)2000年12月:女性国際戦犯法廷記録
「日本人男性(慰安婦の主人)にだまされた」
(3)2002年6月26日:赤旗の記事
「14歳で銃剣をつきつけられて連行」
(4)2004年12月4日:京大講演
「軍服みたいな服を着た男に連行された」
(5)2005年8月3日:越ヶ谷市民集会
「軍服みたいな服を着た男に小銃で脅されて連行された」
(6)2007年2月15日:米下院公聴会
「1944年秋、16歳の時に友だちのキム・プンスンと川辺にいた時、年長の男が私たちを指し、連れの日本人がやってきて誘った。数日後の早朝に友だちのキムが窓を叩いて小声で誘った。私は母に黙ってスリッパでそっと抜け出すと、数日前に見た日本人がいた。彼は人民軍のような服(People's Army Uniform)に戦闘帽をかぶり、3人の少女が一緒だった」
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