なぜ朝日は慰安婦虚報を続けたのか?「崩壊−朝日新聞」より

2015.12.27 Sunday 03:20
くっくり



 長谷川氏は、この点を解明するには、朝日新聞社という会社のそもそものところから考えてみないと解けない問題だと考え、創業者の村山龍平(ペリー来航の3年前に誕生)まで遡ったそうです。

 このへん、『崩壊−朝日新聞』を読んでみないと詳細は分かりませんが、『WiLL』の長谷川氏のインタビューで分かる範囲で言えば、

 初期の朝日は次々と新しいことを取り入れる商才に長けた社風があって、マルクス主義志向も「新しい潮流」として何の躊躇もなく大いに紙面に取り上げられ、その新主義になびく風潮も読者の間に生じたのだと。

 特に、発祥の地である「大阪朝日新聞」にその影響が強く働いたのであろうと。

 そして、この思想環境が戦後にますます強まり、旧日本軍の悪行話は何であろうと自明のこととなってしまったのだと。

 「大阪」といえば、拙ブログの読者様はピンと来られるでしょう。

 1982年9月2日、朝日新聞が初めて吉田清治証言を紙面に掲載したのも、植村隆記者が「ソウル発」として「挺身隊の名で慰安婦を連行」と書いた記事を先に掲載したのも、朝日新聞大阪版でした。


 『崩壊−朝日新聞』には、「主役」が2人います。

 それは、北畠清泰と松井やよりです。

 共に故人ですが、朝日の慰安婦報道に多大な影響を与えた人たちです。
 そのわりに、一般的にはあまり注目されてませんよね。

 北畠清泰は1992年1月23日付夕刊、そして3月3日付夕刊で執筆した「窓」欄で、吉田証言にお墨付きを与えた人物です。

 3月3日夕刊では、朝日の慰安婦記事に疑問を呈する読者からの投書を逆に批判し、「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」と結びました。

 長谷川氏は、『週刊文春』から取材を受け、北畠について語っています。
 2014年9月18日号です。

 『崩壊−朝日新聞』では北畠の実名を出していますが、『週刊文春』では、「X」として誌面に掲載してもらったそうです。

 このような記事でした。

 私(長谷川)はXがヒソヒソ電話で語り合っている場面を度々目撃しました。その相手こそ(略)吉田清治氏だったのです。

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