田辺誠が南京大虐殺紀念館建立を後押しした!?
2015.12.12 Saturday 02:29
くっくり
三岡健次郎氏が初めて中国を訪れた昭和52年、中国で「南京事件」は語られていませんでした。
?小平は三岡氏と会談した時、こう述べています。
「日本の軍国主義は中国を侵略した。そのため蒋介石は後退し、それにより八路軍は勢力を広げることができ、最後は蒋介石を打ち破ることができた」
?小平は日本軍を非難するとともに感謝もしていたけれども、「南京事件」を語ることはなかったのです。
その4年後の昭和56年、中国は教科書に「南京事件」を記述し、さらに4年後の昭和60年、南京市に南京大虐殺紀念館(日本では「記念館」と表記されることも多いが、正しくは「紀念館」)を建てます。
南京大虐殺紀念館が建立された翌年、さっそく三岡氏も案内されました。
三岡氏は士官学校卒業とともに兵隊の教育に従事しましたが、その兵隊と南京戦に従軍した兵隊は同じ年齢です。
日本兵の素質を知っていた三岡氏は、かりに南京で不祥事があっても、事件として指摘されるようなことは起きえない、と捉えていました。
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三岡氏は昭和61年9月、党政治局員兼書記の余秋里と会談した時、「南京事件」を持ち出します。
余秋里は、毛沢東の腹心で、文化大革命の頃は石油鉱業相を務めていました。
会談の4年前に当たる昭和57年の第12回党大会で政治局員に選ばれ、その翌年に国家中央軍事委員会副主席となり、会談が持たれた時は軍の中で極めて重要な地位にいた人物です。
三岡氏は余秋里にこう尋ねました。
「20万人しかいない南京で30万虐殺があったと中国は主張しているが、話が合わないではないか」
それに対して余秋里はまともに答えず、こうはぐらかしました。
「揚子江寄りの下関で2万人を殺したと日本から言ってきている」
そこで三岡氏は戦場というものに言及し、こうたたみかけました。
「2万人の死体がどれくらいか、軍人なら君もわかるだろう」
すると、余秋里はそこで話を切り上げ、逃げてしまいました。
三岡氏は納得できませんでしたが、相手の立場も考えなければならなかったため、切り上げざるをえませんでした。
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