満州国は輝ける近代国家だった

2015.09.14 Monday 01:09
くっくり



 関東軍が秩序を維持していた満鉄周辺の付属地の治安は非常に良く、万里の長城を越えて漢民族が押し寄せてきました。
 軍閥が相争い殺伐としていた当時の中国から見れば、この地域は桃源郷と映ったのです。
 朝鮮人もどんどん移住してきました。

〈ここを母国にしたいとみんなが思って、満州国をつくり上げた。そうでなければ、日本人がいくら頑張ったって、13年余りであんないい国はできません〉

 …とおっしゃる和田さんは、昭和3年(1928年)1月3日、東京生まれ。
 陸軍士官学校を受験後、陸軍省の照会に応じ満州国陸軍軍官学校入学を決意したそうです。

 昭和19年3月、16歳で渡満。
 首都・新京の同徳台にあった軍官学校に入学し、満州国の軍人になることに。
 20年3月には予科を卒業し、日本の陸軍航空士官学校に留学の形で進学。

 つまり終戦時は日本におられました。
 同年8月のソ連軍侵攻により数多くの日本人が犠牲になりましたが、それを免れた、軍官学校の数少ない語り部です。

 満州国での生活は正味1年しかなかったわけですが、多感な青春期を過ごしたこともあり、和田さんにとって、その後の人間形成に大きく影響したそうです。

image[150914-05kaigi.JPG]
[大東亜会議での記念写真。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース。張景恵は五色の房を首からかけた協和服を着用している。画像はwikipedia>満州国より]

 和田さんが満州国に関心を持ったのは、昭和18年(1943年)に大東亜会議が開催された時の資料の中の、満州国の張景恵国務総理(内閣総理大臣に相当)の演説記録がきっかけでした。

 張総理の演説のポイントはこのようなものでした。

(1)満州国は異民族の共存で建国されている点、米英帝国主義のような民族支配関係と根本的に違っている。すべての民族が共栄関係である。

(2)満州国は北辺の防壁であると強調。これは張総理がロシアの満州支配の苛烈さを知っており、北の侵略を心底憎んでいたからと思われる。

[7] << [9] >>
comments (5)
trackbacks (1)


<< 自衛官の命が大切なら二度と差別はしないで下さい
安倍総理が消費税10%凍結を検討!?中国経済崩壊で世界があてにする日本! 青山繁晴「インサイト・コラム」 >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]