朝鮮人徴用工の実態!月給140円、豊かな食生活と宴会、日本人女工と楽しく過ごし、宿舎を抜け出し逢い引き、朝鮮人親方の飯場に“転職”
2015.09.07 Monday 01:48
くっくり
次に、実際に徴用された大阪市の工場から逃亡して東京まで行って朝鮮人親方の下で日雇いの「自由労働者」になった金山正捐氏の手記を見よう。
逃亡の動機は同じ徴用工である隊長との殴り合いのケンカだった。
なお、先述の鄭氏は百人の隊員がいる中隊長だった。
〈私は朝鮮でも可成の裕福な家庭に生立ちましたので最初の内は逃亡をするといふ気持ちは毫(ごう)もありませんでしたが、漸次故郷懐かしくしかのみならず毎日集団の隊長神農大律と口論し果ては喧嘩の末殴り合も五六回に及び、それに隊長の方には良かれ悪かれ会社の幹部も応援するので居堪れなくなり(略)崔安石と逃げることに決心して申し合わせ、二人で[1945年]七月二十八日昼飯後寮を脱けて大鉄長野駅より阿部野橋に出た処空襲に逢ひ城東線京橋で下車し京阪電車で京都に着きました。
私は所持金が二百五十円程ありましたので宿舎に泊り食事なしで十二円を支払ひました〉
[原文カタカナをひらがなに直す。以下同]
image[150907-02abeno.jpg]
[あべのハルカスHPによると、昭和19年(1944年)から始まった大阪への一連の空襲の中で、昭和20年(1945年)、あべの地区への空襲も始まった。画像は同年3月、罹災し復旧工事中の日本鉄道阿倍野百貨店。おーさか、ぶらっConny!様より]
1945年3月、大阪府南河内郡長野町の吉年可鏻鋳鉄工場は金山氏を含む41人の朝鮮人徴用工を受け入れているが、8月15日までの5カ月で37%にあたる15人が逃走している。
先に統計から見たようにこの時期の逃走率平均が37%だから、まさに平均的な数字だったが、その気になればいつでも逃げられたのだ。
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