朝鮮人徴用工の実態!月給140円、豊かな食生活と宴会、日本人女工と楽しく過ごし、宿舎を抜け出し逢い引き、朝鮮人親方の飯場に“転職”
2015.09.07 Monday 01:48
くっくり
鄭氏は第二寄宿舎の職員である日本人戦争未亡人から熱烈に慕われ愛人関係になる。
二十代前半の岡田さんである。
〈彼女の家は寄宿舎の前の社宅であった。
家の中には誰もいなかった。(略)
「遅くなったけれどもお上がりください」私を居間に案内した。
上がると彼女は風呂を勧める。
面倒だとは思ったが入浴していると、彼女が来て背中を流してくれた。
これが日本式らしい。
風呂から上がると、日本の浴衣に着替えろとすすめる。
居間にはいつのまにか食事の用意ができていた。(略)
夏の夜は短い。
明け方五時になった。
彼女は私を起こして「早く寄宿舎にお帰りなさい」とせかす。
宿舎に帰ると、小隊長たちが広い部屋で寝入っていた。
戸を開ける音で目を覚ました小隊長の柳光勲が目をあけて、「何処へ行ってきたのか」「今帰ってきたのか」と聞く。
私は曖昧な返事をして布団にもぐりこんだ。
彼はそれ以上咎めなかった。
起床時間にはまだ時間があり、私は布団に入るやいなや直ぐに眠ってしまった〉
徴用された労働者が夜、自由に寄宿舎を抜け出し逢い引きすることができた。
その気になればいつでも逃亡して「自由労働者」になれたということだ。
工場側が当時としては破格の待遇をしたのは、そうしないと徴用工でもより条件の良いところに引き抜かれてしまうという現実があったからだろう。
その後、鄭氏は岡田さんの働きかけのお陰で工場から事務所に勤務場所が変わった。
そのため、原爆投下の日、市内での勤労動員に出ず、命拾いをした。
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[手記2] 1945年3月、大阪府南河内郡長野町(現在の河内長野市)の吉年可鏻鋳鉄工場に徴用された金山正捐氏(日本名)が、同年7月に逃亡し東京の飯場で「自由労働者」として働き、9月に再び長野町に戻り警察の取り調べを受け、そこで書いた手記。1945年9月18日付けで長野町警察署から大阪府警察局長・治安部長・特高第二課長宛に出された「逃亡セル集団移入半島徴用工員ノ諸行動ニ関すスル件」と題する公文書の中にあり、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成〈第4巻〉』image[]に収録されている。
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