朝鮮人徴用工の実態!月給140円、豊かな食生活と宴会、日本人女工と楽しく過ごし、宿舎を抜け出し逢い引き、朝鮮人親方の飯場に“転職”
2015.09.07 Monday 01:48
くっくり
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[手記1] 1944年12月広島市の東洋工業に徴用された鄭忠海氏が、当時つけていた日記をもとに1970年に私家版としてまとめたものを、1990年、井上春子氏の訳で『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)image[]として日本で出版したもの。残念ながら現在は絶版。
鄭忠海氏の手記から徴用者の生活を見よう。
住居は新築の寄宿舎、新品の寝具が備えられていた。
〈海岸に新しい木造二階建ての建物があった。
そこがこれから我々が寝起きする寄宿舎で、朝鮮応徴士たちを迎えるために新しく建てられた第二寄宿舎だという。
新しい建物なので少し安心する。
割り当てられた部屋に入った我々は、先ず旅装を解いた。
私は二階の部屋であった。
室内を見渡すと“たたみ(畳)”二十枚を敷いた広い部屋に、新しく作った絹のような清潔な寝具が十人分、きちんと整頓されてあり、片方には布団と私物を入れるのだろう、押し入れが上下二段になっている〉
食生活もかなり好待遇だった。
〈明るい食堂には、大きい食卓が並んでいた。
新しく作られたものらしい。
食堂のホールの前の厨房では年ごろの娘さんたちが、白いエプロンをつけて食事の準備に忙しそうだ。
食卓の前に座っていると、やがて各自の前に食事が配られた。
飯とおかずの二つの器だ。
飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった。(略)
飯は大豆が混じった米の飯で、おかずは筍と肉の煮物で、口に合っていて食べられた(あとで分かったことだが、肉は馬の肉だという)。
戦時中日本では、馬の肉を喜んで食べたという。食事の分量も私には適当だった〉
鄭氏たちは月給140円という高給であり、食堂の食事以外にかなりの食糧を近隣から入手し大変豊かな食生活を送っていた。
※くっくり注:1945年の軍人給与の表(こちらのサイトの一番下を参照)によれば、月給140円は日本軍の大尉並みの額。女子動員学徒の月給は30円でした。参考までに、「京城日報」1944年7月26日(画像左)の慰安婦募集広告に記載されている月給は「300円以上」。
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