昭和天皇の質素な暮らしと共産党員によるプラカード事件

2015.04.27 Monday 03:00
くっくり



 こちらは静岡市の戦災者・引揚者寮で見られた光景。

【天皇は一室ごとにお言葉をかけて回られる。
 中には「巡幸反対」を唱える共産党員もいたが、全く気にせず、等しくお言葉をかけられた。
 天皇のお帰りの際、その共産党員は御召車すれすれに顔を寄せ、叫んでいた。
 「天皇陛下、万歳!」
 大金益次郎(おおがね・ますじろう)侍従長は、その模様をこのように記している。
 「陛下の虚心な御行動の先ざきでは、我々の複雑な先入観は、常に事実として、払拭される。そこで、我々はただ日本人を見る。党派も階級も貧富も見えない。我々はただ日本人の血の叫び、魂の交流だけを感ずる。党派も貧富も階級もその障壁をなさない」】
[「昭和天皇論」第7章 昭和天皇の御巡幸/小林よしのり]

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 占領軍は「敗戦の苦しみにあえぐ国民が石の一つも投げて、天皇の権威が泥にまみればよい」と目論んでいましたが、昭和天皇がどこに行かれても国民は「万歳、万歳」の大歓迎。

 それを快く思わなかった占領軍は、御巡幸を中止に追い込みます。

 しかし、国民の要望を受けて昭和24年から再開され、沖縄以外の全国を約8年半かけて回られました。

 昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を勇気づけるとともに、戦後日本の復興の大きなエネルギー源となったのです。

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[飯米獲得人民大会。動画こちら

 話をプラカード事件に戻して\(^^\)

 事件が起きた昭和21年5月19日の飯米獲得人民大会について調べてみると、共産党と社会党が、吉田茂の組閣を妨害するため(吉田は反共主義で知られていた)、デモ隊を先導して押し寄せたとあります。

 デモ隊は3つの集団に分かれ、朝日新聞労働組合の初代委員長で共産党員の聴濤克巳が率いる集団が昭和天皇への面会を要求したものの、犬山宮内省総務課長に拒否され、「天皇に食糧事情改善のため、人民の総意を汲み取り、適切な指導をするように願う」旨の上奏文を犬山に渡して撤収したそうです。

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