昭和天皇の質素な暮らしと共産党員によるプラカード事件
2015.04.27 Monday 03:00
くっくり
一方、地下室からは猛烈な湿気が太い柱をよじ登ってきます。
背広を吊しておくと2、3日でじっとり湿ってしまうほどだったと、当時の侍従だった入江相政氏が『天皇さまの還暦』や『皇居』といった著書に書いています。
こんな施設に昭和天皇は戦後も長い間、住んでおられたのです。
湿度が高いだけでなく、日も差さない、風も入らないので、健康に良いはずがありません。
昭和26年頃のこと、侍従は陛下にこう進言しました。
「日当たりのいい、風通しのいい、お住居を造らせていただきたいのですが」
すると昭和天皇はこう言われて拒否されました。
「世の中には住む家のない人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」
「湿気ると言っても、印象だけでは問題にならない。数字的な根拠を示さなければ」
そこで侍従たちは、建築衛生の専門家に1年間データをとらせました。すると、やはり最悪だという結果が出ました。
そこで修理することになったのですが、屋根裏からは、3立方メートルぐらいの所から、ドラム缶2杯半の水が出てきたそうです。
昭和28年頃から、対外的にはやはり新宮殿が必要だという話が持ち上がりましたが、「新宮殿よりも、陛下も還暦になろうというのに、まともな住居が必要ではないか」と周囲は考えました。
ですが、「公事」と違って「私事」であるため、昭和天皇は気が進まれなかったようです。
政府は何度も新居へ移るように勧めましたが、
「みなが空襲や引き揚げで住む所もなく苦労しているのに、自分だけそうするわけにはいかない」
と、頑としてお譲りにならなかったそうです。
皇太子殿下(今上陛下)の御成婚は昭和34年4月でしたが、その頃もまだ「御文庫」に住まわれていました。
やっと新たに建てられた吹上御所に移られたのは、昭和36年12月、終戦から16年経過してからのことでした。
その時、こう仰せになったそうです。
「こんないい家に住めるようになったのも、みんな国民のおかげだ」
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[吹上御所(手前。現吹上大宮御所)と御文庫]
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