日本側当事者の証言から見る慰安婦問題 「正論」12月号より
2014.11.08 Saturday 03:08
くっくり
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[画像=左は「京城日報」1944年7月26日掲載。右は朝鮮総督府機関紙「毎日新報」1944年10月27日掲載]
■広瀬利文さん
日本軍がアッツ島やガダルカナル島で玉砕した時、私は北支の日本中学三年生だった。
決死の覚悟で中支派遣軍を志願したが年齢不足のため特務機関要員として南支の仏印国境まで行った。
当時少年ながら慰安所を見聞し、経営者や慰安婦とも親しく話す多くの機会を持った者として慰安婦の真実の姿を紹介する。
わが第八十四聯隊の駐屯していた浙江省・金華市へ連絡に行った帰り、始発電車に乗って待っていると憲兵軍曹に席を二つ取っておくように頼まれた。
やがて二人の朝鮮人慰安婦が乗ってきて私の向い側に坐った。
彼女達は陽気で、盛んに私に話しかけてきた。
「お兄さん、何歳ですか」
「十六歳です」
「若いのね!私達は杭州の西湖に行ってみるの!先刻の軍曹さんは私のいい人なの」
そして二人は顔を見合わせて小声で「幸せ!」と言った。
私が「幸せですか」と聞き返すと年下の女性は「そりゃー(朝鮮から)出てきて良かったわ。お金も家に送れるし、それに仕事も大したことでもないし……」
年上の女が肘でこの女の話を止めて
「ねえお兄さん、アリランの歌知ってる?」
「いや知らない」
「教えてあげる」と言って歌い出した。
「アーリランアーリランアラリョー、アーリランコーゲールノーカンダー。私を捨てて行く人はー一里も行かずに足が痛む」
杭州で下車した二人の後姿を見ながら朝鮮人慰安婦達が日本人と融け合っている姿をほのぼの感じたものである。
■S・Gさん(匿名希望)
【昭和十三年暮、現役兵として入隊、直ちに中支派遣軍要員として中支各地の警備や作戦に参加。昭和十五年春に歩兵第二一六聯隊第三大隊本部付陸軍主計軍曹として転勤。この方の手記は非常に長文。最後の部分から紹介します】
次ぎに従軍慰安婦の強制連行という言葉に大いにイチャモンを付けたい。
先ず我が部隊でのピー連中で大体月額最低百五十円を家郷へ送金して居た。
内地では当時建て売りの借家が一軒百八十円位で買えた。
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