慰安婦問題年表(1)1965-2015
2014.10.27 Monday 19:11
くっくり
<1985年>
8月
城田すず子、「慰安婦」鎮魂碑を建てる(かにた婦人の村)。
<1988年>
2月
慰安婦に関する調査を続ける韓国の梨花女子大学教授、尹貞玉(後の「挺対協」共同代表)らが沖縄を調査し、元慰安婦ペ・ポンギと会見。
8月18日
朝日新聞朝刊「ひと」欄で、編集委員の松井やよりが尹貞玉を紹介。
<1989年>
吉田の著書が韓国語に翻訳され、韓国で出版。史実としてドラマ化され、韓国で「従軍慰安婦問題」への関心が高まる。
梁順任が「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会長に就任。1991年12月6日から2004年11月29日にかけて、慰安婦に対する賠償を日本政府に求めたアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(最高裁判所にて原告の敗訴)を主導する。梁順任は、1991年8月に「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」記事(「挺身隊=慰安婦」“誤報”)を書いた朝日新聞大阪社会部の植村隆記者の妻の母である。
5月
大分市の主婦で「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」の事務局員、青柳敦子が『朝日ジャーナル』1989年5月19日号に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という意見広告を出す(同年12月まで隔週で15回)。
8月14日
吉田清治の記述内容に疑問を持った『済州新聞』の許栄善記者が現地調査したルポを『済州新聞』に発表。「(吉田の)この本に記述されている、城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちはでたらめだと一蹴しており、この記録の信憑性に対する一層の疑問を投げかけている。城山里の住民のチョン・オクタンさん(85歳)は『そんなことはなかった。250余世帯しかない村で15人も徴用していったならば大事件だが、(中略)当時そんなことはなかった』と断言した」「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と書いた。後に済州島を取材した秦郁彦は許栄善から「なぜ日本人はデタラメな記事を書いて我々を侮辱するのか」と言われたと明かしている(2014年9月26日放送『朝まで生テレビ!』)。
11月19日
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