日本人と朝鮮人はとても仲が良かった!「朝鮮總督府官吏 最後の証言」より

2014.09.08 Monday 01:07
くっくり



 財団法人の初団式には、總督を招くことになりました。
 西川さんが總督を直接見かけたのは、12年間でこの1回きりだったそうです。
 
 この初団式に関しては、とても興味深いお話があります。

 江原道の知事(朝鮮人)が読む式辞を、西川さんが考えることになりました。
 ところが、上司である係長(日本人)が、表現がきついとして、柔らかく文章を変えてしまったのです。
 その上の課長(日本人)も、部長(朝鮮人)も、そのまま判を押してしまいました。

 部長は特に西川さんのことを可愛がってくれていたので、直してくれると思ったのに、直してくれず、西川さんは「せっかく考え抜いた肝心な部分が骨抜きにされてしまった。もうだめか」と思われたとのこと。

 ところが、なんと知事(朝鮮人)が、西川さんの文面に筆で「原文生き」としてくれたそうです。
 
 どうしても西川さんが入れたかったその文言とは……、
 ここでは内緒にしときます(^_^;
 どうぞ本書で実際にご確認下さい。

 ちなみに、この時の知事を西川さんは日本人と記憶されていましたが、資料では朝鮮人となっていました。

 「当時は、日本人とか朝鮮人とかそんなことは、どちらでもよくて、あんまり意識していなかったので、記憶に残っていないこともあります」と西川さんは話されています。

 その後、寧越郡の内務課長となられた西川さん。

 群守が一番偉いのですが、どこの郡でも郡守はほとんど朝鮮人でした。
 西川さんも朝鮮人の郡守の下で働いていたことになります。

image[140908-03table.JPG]
[歴代の江原道知事及び参興官(参与官)。1933〜43年の江原道知事と参与はほとんど朝鮮人だったのが分かります]


 ここまででも十分貴重な証言だと思うのですが、西川さんにとってはほんの「前説」に過ぎません。

【私が朝鮮に行った当初から、日本人と朝鮮人は「内鮮一体」として扱われ、私は朝鮮人の上司の下で働き、時に朝鮮人を部下に使いました。当然のことながら、お互いに民族の違いは意識しておりましたが、それ以外のことは何ら変わりがありません。日本の朝鮮統治というのは、欧米の植民地とは根本的に違います。

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