日本人と朝鮮人はとても仲が良かった!「朝鮮總督府官吏 最後の証言」より

2014.09.08 Monday 01:07
くっくり


  31歳 和歌山県庁に出向
 平成26年(2014)
  現在99歳

※全く関係ありませんが、私のルーツも和歌山県です。私の父は田辺市に隣接する「みなべ町」の出身で、田辺市の高校に通っていました。


 西川さんは和歌山県の林業学校を卒業後、朝鮮に就職が決まりました。
 この仕事は校長先生が探してくれたものだそうです。

 初めて見た朝鮮の街は日本の街と比べてあまり変わらなかったので、特別の感慨はなかったと、西川さんはおっしゃっています。

 郷里の和歌山から釜山、京城(現ソウル)から江原道の春川へ行かれたのですが、日本と特に変わらなかったと。
 町を歩く人が朝鮮語を話していると、「ああ、他国に来たのだなあ」と思われたくらいだったそうです。

 朝鮮で最初にされた仕事は、植林でした。
 当時、釜山や京城など街の周辺の山は「禿山(はげやま)」だったのです。

 官吏養成所ができた時、朝鮮總督府から入所生の募集があり、西川さんはこれを受け、江原道を代表する5人の中に選ばれました。

 5人のうち2人は朝鮮人で、一緒に勉強されていた西川さんは、「朝鮮人はこういう文系のことは本当に頭が良い」と感心されたそうです。

 昭和12年に官吏養成所を卒業された西川さんは、朝鮮總督府の江原道属(正式な官吏)に任命されました。

 当時の日本の若者は皆、20歳で徴兵検査されています。

 西川さんは昭和13年に臨時召集により、1年間入隊されましたが、「内鮮一体」にもかかわらず、朝鮮人が召集されないことを不思議に思われたそうです。

 ちなみに朝鮮人に徴兵制度が適用されたのは昭和19年で、訓練中に終戦を迎えています。
 朝鮮人にも徴兵が行われたことを西川さんが知ったのは、戦後になってからだそうです。


 西川さんは、江原道では金剛山の仕事をされていました。
 内金剛から外金剛に電話線を架設する仕事です。
 金剛山が好きだったので、内心とても嬉しかったそうです。

 また、地元の人々が金剛山の管理、保護をしていけるようにと、財団法人を作る仕事もされました。
 名前は「金剛山愛護団」で、地元の朝鮮人が職員となり、地元の人が金剛山保護をするというものです。
 内金剛・外金剛合わせて団員は朝鮮人100人くらいだったそうです。

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