竹田恒泰さんが台湾のテレビに!Tweetまとめ14.04.01〜14.04.15

2014.04.19 Saturday 01:08
くっくり


@boyakuri @miyudesuyo 竹田先生は北白川宮能久親王の玄孫でもあるそうです。日本統治時代にあった神社の8割にこのお方が祀られているそうです。詳しくは http://t.co/RiD2Ijmo5p

— Al Cozakula (@Suidies) 2014, 4月 8

 竹田恒泰さんは明治天皇の玄孫(母方)であることは有名ですが、父方についてはこれまで私はあまり考えたことがありませんでした。

 北白川宮能久親王とは、こういう方だそうです(Wikipedia>北白川宮能久親王による)。

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【北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、1847年4月1日(弘化4年2月16日) - 1895年(明治28年)10月28日は、幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。

伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじの みや)として知られる。

台湾出征と陣没

1893年(明治26年)11月10日に第4師団長となる。1895年(明治28年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征(乙未戦争)。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日台湾全土平定直前に台南にて薨去。しかしそれが秘匿されたまま遺体は日本に運ばれ、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示されて国葬に付された。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、豊島岡墓地に葬られた。また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神社(台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建された。また後に台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされた。敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて破却されたため、現在は靖国神社にて祀られている(戦後の1957年10月4日に、筑波藤麿宮司(当時)の指揮により合祀される)。

親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられた。】

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