【続・記憶せよ12月8日】外国人から見た日本と日本人(37)

2013.12.03 Tuesday 00:23
くっくり



 日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。
 私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためにここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです。

※この村には現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われています。シンハ村長はこの慰霊塔建立の推進役となりました。

■ラース・ビハーリー・ボース=インド人。インド独立連盟総裁。1943年(昭和18年)7月、シンガポールで、その地位をチャンドラ・ボースに委譲し同連盟最高顧問に。スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」(新宿中村屋の相馬家の婿だったため)とも呼ばれる。
ビハリ・ボース著「印度(インド)侵略悲史」より
日本軍がシンガポールを陥落させたことについて

 イギリスの勢力を印度から完全に一掃しない限り、日本の理想とする大東亜共栄圏の確立は不可能なのである。東條(英機)首相は深くこの点に鑑みられ、去る2月16日シンガポール陥落報告の議会演説に於て、我々印度人に対し、一日も早くイギリスの束縛を脱却し、「印度人の印度」を建設することを要望された。

(中略)ここに東條首相の断乎たる印度援助の声明を聞くことを得て、実に天にも昇る悦びである。今こそアジヤの復興する時が来たのだ。今こそ印度を、三百年に亘るイギリスの暴圧から解放する時が来たのだ。

■スバス・チャンドラ・ボース=インドの独立運動家。インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。1943年(昭和18年)10月、日本を拠点に独立運動を行っていたラース・ビハーリー・ボースやA・M・ナーイルらと合流、日本の支援により日本統治下のシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。同年11月の大東亜会議にオブザーバーとして参加した。1945年(昭和20年)8月18日、台湾の飛行場で搭乗していた飛行機が離陸に失敗した事故により死去。遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。
1943年11月、重慶向けラジオ放送で蒋介石に対日和平を呼びかけた言葉

 これまでアジア諸民族の解放と結集の障害になっていたのは、一つは西欧帝国主義の存在、その二つはアジア弱小諸国へ援助の手を伸べるアジア勢力が欠如していたことであった。いま、後者の役割を演じるは、ひとり日本のみである。

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