産経新聞的ちょっといい話(読者投稿欄より)
2013.10.21 Monday 01:13
くっくり
※素朴な疑問ですが、朝日に元自衛官の方の読者投稿が載ることはあるのでしょうか?…というより、朝日を購読する元自衛官の方自体が存在しない?
【アッツ島玉砕で戦死した兄】
2013.6.6
主婦 竹口シゲ子(86)東京都江東区
今年も5月29日が巡ってきた。昭和18年のこの日、兄がアッツ島の玉砕で戦死しており、今年で70年の歳月が流れたことになる。
少女雑誌を買ってきてくれたりして、8歳違いの兄には何かとかわいがってもらった。戦死の公報が届いた日、私は蔵の中に入って大声で泣いた。遺骨箱の中には頭髪と爪だけが入っていた。25歳だった。
後で送られてきた遺品の記憶はおぼろだが、軍隊手牒(てちょう)と若い女性の写真があったことは忘れられない。看護婦の制服を着た女性で、恐らく結婚を約束した人ではなかったかと思う。軍隊手牒の最後には、「5月29日、早暁突撃す」とあったように記憶している。
戦地で、あるいは本土空襲、沖縄戦、原爆投下と、多くの尊い命が犠牲となった。銃後の私たちは、勝つまでは、とあらゆる苦難に耐えた。戦争ほど悲惨で残酷なものはない。永久に平和が続くよう、祈らずにはいられない。
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【玉砕の島に思う戦争の無残】
2013.6.12
主婦 唯根幸子(ゆいね・ゆきこ)(84)東京都北区
6日付「談話室」に掲載された「アッツ島玉砕で戦死した兄」を拝読し、胸がいっぱいになりました。私の子供の頃の家庭医だった先生も軍医としてアッツ島に派遣され、命を落としました。
葬儀で4歳くらいの男の子がお母さんに手を引かれてたたずんでいた光景が今も目に浮かびます。
先年、主人と世界一周クルーズに出かけた折、アラスカからアッツ島沖を通ることを知り、この島で多くの日本人が亡くなったことを船長に伝えました。船長は船内放送でアッツ島玉砕の事実を乗客に知らせ、私たち夫婦をブリッジに招いて、海上に献花、献酒させてくださいました。
海は一面の霧で、島影は全く見えませんでした。この霧があったから、近くのキスカ島では守備隊が全員無事に撤退できたのだと思うと、対照的に玉砕せざるをえなかったアッツ島の方々の無念さをひしひしと感じました。戦争は無残なものだとつくづく思います。
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