“遺棄化学兵器”問題で旧日本軍兵士の証言
2006.09.04 Monday 00:53
くっくり
※二本柳さんはその後、シベリアに抑留された。復員は昭和23年5月。
【元機動第1連隊中隊長(少尉)、米田誠次郎さん(83)=大阪府堺市=の証言】
※米田さんは、陸士56期。昭和18年5月、少尉に任官し、19年8月、関東軍の機動第1連隊中隊長に。20年6月、旧満州吉林省・杜荒(孔)子付近において、ソ連軍の攻撃に備えて戦闘準備を進めていたが、8月9日の突然の侵攻で、ゲリラ戦を行うために、中隊の約130人を率いて山中へ。しかし、28日ごろ、連隊命令として、停戦の指示を受けた。9月2日、杜荒(孔)子で武装解除に応じ、全ての武器・弾薬をソ連軍に引き渡した。
●8日28日ごろ、戦争が終わったことを知り、武装解除を行うために、ソ連軍が駐屯していた杜荒(孔)子でへ向かった。9月2日に着いたときは、すでに他の中隊は到着しており、我々が最後だった。他の中隊は武装解除され、倉庫に収容されていた。私の中隊の中には、「出ていかない」という人もいたが、満州の気候はとても厳しく、とても山中に冬は越せない。そういって説得し、中隊全員で武装解除に応じた。
●武装解除は極めて整然と行われた。到着後、真っ先に大隊長へ報告。最後の捧げ銃の敬礼を行い、部隊を解散した。そして、各兵隊が携帯していた三八式小銃を、ソ連兵の監視する前に並べて置いた。私は持っていた軍刀(備前長船の銘刀。現在の貨幣価値なら1000万円ぐらいになるかもしれない)やドイツ製の双眼鏡(8倍)まで、一緒に手渡した。武器解除に抵抗する者は、ひとりもいなかった。
●ソ連軍との間で、引継書のような書類は一切取り交わさなかった。ソ連軍から、領収書を受け取ることもなく、我々としても、そういったものを受け取る意思も、必要も認めなかった。満州における武装解除の状況は、おおむねこうしたものだったと思う。
●我々は機動連隊であり、装備は一般の歩兵連隊とほぼ同じだから、いわゆる化学兵器は持っていなかった。ほかの多くの部隊がそうだったと思う。いわゆる化学弾を所持していたのは、我が国では野砲兵連隊、山砲兵連隊、野戦重砲兵連隊など。しかも一会戦分の一個師団の弾薬数は400〜500発。もし、中国がいうように、本当に関東軍が200万発も化学兵器を持っていたのなら、降伏はしなかっただろう。
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