支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺

2013.03.30 Saturday 03:44
くっくり


 1938年11月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙(ちょうさ)で、省長の張治中が強行したのは、無意味な放火の典型でした。

 日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させたのです。

 この時、危うく焼死を免れたのが冒頭に紹介した郭沫若です。
 一時、長沙に滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれました。

 郭沫若はこの時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残しています。

【長沙に火をつけて焼き払ったのは、張治中とか藩公展とかいった人々の大いなる功労だった。彼らは一度奇功をたててみたい一心で、モスクワを焼いたクトゥーゾフを真似た結果が長沙市の大火になったのだ。
 だが、残念ながら、日本人は笑いものにするばかりで、ナポレオンを演じに登場してくれなかった。
 百万戸以上の人家を焼き、さらに統計にもれた傷病兵や病人や年寄りの市民を焼死させた責任は誰が負うのか?】

 この失態の責任を取らされ、警備司令の鄷悌(ほうてい)ら3人が銃殺されました。

 ちなみに、最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れています。
 実は周恩来もこのとき長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立てていたのですが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかなかったのです。

 (張治中は回想録の中で、周恩来に中国共産党への入党を申請したが、周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められた、と書き残しています)


image[130330-08minnie.jpg]

 蒋介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させました。
 しかも、支那兵は単に放火をしただけではありませんでした。

 日本軍が南京の近くまで押し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴォートリンという女性が記録しています。
 南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)をしていた人です。

[7] << [9] >>
comments (7)
trackbacks (0)


<< 「アンカー」安倍政権2つの懸念…日露首脳会談(北方領土)と1票の格差判決
NHKの中立性に疑問!Tweetまとめ13.03.16〜13.03.31 >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]