支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
2013.03.30 Saturday 03:44
くっくり
image[130330-01kaku.jpg]
中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若(かくまつじゃく)という人がいます。
日本との縁が深く、支那事変が起こるまで日本に長く住んでいました。
支那事変が始まってのちは、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝に従事しました。
その郭沫若が、昭和34年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題『洪波曲』)』に、こう記しています。
【話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうにわれわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも毎日毎日「最後の勝利は必ずわれらのもの」などとくりかえしていたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁(そうてい)から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。私はそういいきることができる】
image[130330-02shou.jpg]
この記述を証明するものとして、まず、支那事変初期に起きた「黄河決壊事件」を取り上げてみます。
蒋介石が実行した、一種の自国民大量虐殺です。
この事件の記録を見れば、戦死したり日本軍に「虐殺」された同胞(支那人)の数よりも、自国軍に殺された同胞の数の方が100倍以上多かったという、郭沫若の主張が嘘ではないことが分かります。
image[130330-03map.jpg]
[徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域。画像クリックにより新規画面で拡大されます]
1938年6月。
すでに河南省の開封(かいほう)を占領していた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の鄭州(ていしゅう)南方の平漢鉄路まで進出しました。
慌てた蒋介石は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河の堤防を破壊しました。
このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく、安徽(あんき)省、江蘇(こうそ)省の一部を水浸しにしました。
[7] beginning... [9] >>
comments (7)
trackbacks (0)
<< 「アンカー」安倍政権2つの懸念…日露首脳会談(北方領土)と1票の格差判決
NHKの中立性に疑問!Tweetまとめ13.03.16〜13.03.31 >>
[0] [top]