平沼赳夫さんの1月30日代表質問起こし(転載)
2013.02.04 Monday 00:44
くっくり
松山藩は当時大変な貧乏藩で、石高は5万石でしたが、方谷が調べたところ実際は1万9000石ほどしかなかった、こういうふうに言われております。そして借金は膨大で、10万両の借金が大阪の両替商にあり、利息を払うだけでも四苦八苦の状況でした。藩主板倉勝静(かつきよ)に請われて全権を委任されて、元締役兼吟味役、今で言えば財務大臣に就任したわけであります。
方谷は現在の日本に匹敵する財政難に必死で立ち向かいました。方谷は節約の大号令を発し、藩札の刷新、産業の振興、藩政改革、文武の奨励、軍制の確立、新田の開発等々で一所懸命にそれに取り組み、現在の貨幣価値で言うと600億円にもなる10万両をわずか7年で完済し、その上に10万両の蓄えまで持つことができました。
彼は節約でお金を浮かし、大阪の両替商には正直に内情を示し、再建計画書を提出、利息をまけてもらい、この資金で製鉄のためのたたらを造り、鉄製の三本又の備中鍬を大量製造して、当時日本の総人口の8割を占めている農民に向かって、江戸でこれを販売しました。
これが羽が生えたように売れ、藩の収入に大変寄与しました。これで方谷は街道の整備、港の建設を行い、流通面でも配慮したわけであります。
当時は藩の発行した紙幣、藩札は紙くず同然になってそれぞれの家に眠っていました。方谷は、藩札を持ってくれば金貨銀貨銅貨に替える、交換を約束を致しました。藩中の人たちは半信半疑で藩庁に藩札を持ってきました。約束どおりに金銀銅貨に交換してくれ、藩の中心にある河原に旧札がうずたかく積まれました。方谷は衆人環視の中でこれに火をかけて燃やしました。新たに藩札を発行しました。新しい藩札には信用があり、瞬く間に流通をし、隣の藩にまで浸透したようです。
こうして情報を開示し、資金を創出し、産業を興し、信用ある藩札の発行、金融改革、財政改革を行い、必要な公共事業にも手を伸ばしました。また方谷は新田の開発にも熱を入れ、新田からの米には年貢をかけませんでした。農民だけでなく、武士にも屯田兵制度で新田を開発させ、これも無税扱いに致しました。これは税制改革のひとつと言え、経済は盛んになりました。
また軍備にも着目し、里正隊(りせいたい)、武士でない一般人からなる軍隊を創設し、総理のご地元の奇兵隊の10年も前にこの里正隊を設立しました。これを日下玄瑞もわざわざ見学に来て、多大な影響を与えたものと言えます。山田方谷は72歳で没するまで、教育、それに邁進し、彼の教育の教えを受けた人々が大変活躍をしました。彼の藩政刷新の効果絶大で、板倉勝静は徳川幕府の筆頭老中にまで上り詰めることができました。方谷は勝静の右腕として活躍し、大政奉還の精神も彼が起草したと言われております。現在の日本と同じ状態となっていた松山藩を実質1万9千石から20万石の実力とまで言われるようにした山田方谷のこと、我々は今、今後の参考に大いになると考えております。(拍手)
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