真珠湾攻撃の日に特別攻撃隊について改めて考えてみる
2012.12.08 Saturday 02:04
くっくり
その『知覧特別攻撃隊』の中から、今日は「特攻の母」と呼ばれた鳥浜とめさんのお話を紹介させて下さい。
(正しくは「鳥濱トメ」のようですが、『知覧特別攻撃隊』では「鳥浜とめ」表記になっているので、拙ブログではそれに倣います)
image[1212-03Tome.jpg]
[画像はWikipedia>鳥濱トメより]
知覧町中郡(なかごおり)にあった鳥浜とめさんの富屋食堂は、知覧分教所が開校されて以来、軍の指定食堂になっていました。特攻隊員として知覧飛行場にきた隊員たちは、とめさんのことをいつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。
昭和20年3月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというもの、とめさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂を訪れてくれる特攻隊員をもてなしたのです。
以下は、とめさんが特攻隊員たちの思い出を語ったものです。
【隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でした。みんな極楽に行く人達でしたから、とてもやさしいんです。全部わたしの子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
長野県の下平正人さんも、
「おかあさんと呼ばせてくれ」
と言っていました。当時16歳だったと思います。
中島豊蔵軍曹は、私に逢いたいために軍用トラックで来たんですが、わたしを見つけると急いでトラックから飛び降りたために、右腕をくじいてしまって、操縦桿を握ることができなくなったんです。
わたしは、
「中島さん、腕をちゃんと養生してから征くんですよ」
と言ったんですが、中島さんは、
「この腕を養生しているうちに日本は負けてしまう。勝たなければいけないから」
と言うんです。わたしは、
「そんな腕でどうして征くことが出来るの」
と言ったんですが、中島さんは、
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