尖閣めぐり国連総会で日中が応酬
2012.09.28 Friday 23:30
くっくり
北京政府は「昔から中国の領土だった」と主張しますが、もちろんそんな事実は全くありません。
そもそも支那が尖閣諸島を実効支配したことは一度もありません。
また「明の時代の地図に書かれてある」とも言っているようですが、地図に書いてあるというだけではその国の領土とはなりません。
尖閣諸島の歴史的経緯を簡単にまとめると…
(皆さんご存知とは思いますが)
1895年、日本政府が、いずれの国にも属していないことを確認した上で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。
それよりさかのぼること約10年、1884年に福岡出身の商人・古賀辰四郎が尖閣諸島の開拓に着手し、「古賀村」集落が形成されました。1909年時点で定住者は248人、99戸に達していました。彼らは1940年頃まで生活していました。
1951年のサンフランシスコ講和条約により、沖縄県はアメリカの施政権下に置かれました。
その時、尖閣諸島も沖縄県に含まれていました(台湾は1945年以降に中華民国台湾省となりましたが、尖閣諸島は含まれていませんでした)。
そして、1972年に沖縄県が日本に復帰した時、沖縄県に所属していた尖閣諸島も一緒に日本に返還されたのです。
支那(と台湾)が尖閣諸島を自国領土だと主張し始めたのは、尖閣周辺海域に資源が埋蔵されている可能性を国連が指摘した後の1971年です。
では、尖閣諸島が沖縄県に編入された1895年から1971年までの間に、支那が尖閣諸島を自国領だと国際社会に向けて主張していたかといえば、そんな事実は全くありません。
逆に、支那が尖閣諸島を日本領だと認識していた証拠はいくつもあります。
1919年、中華民国の漁船が暴風雨に遭遇して魚釣島に漂着座礁し、魚釣島の島民に救助されるという事件が発生、後に中華民国の在長崎領事が贈った感謝状の中には、海難発生場所としてはっきりと「日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島」と記されています。
中華人民共和国成立後も、1953年1月8日付の「人民日報」が尖閣諸島を日本領であることを認める記述をしているし、1950年代・60年代に作成された北京政府の公的な地図を見ても、尖閣諸島を日本領として扱い、「尖閣群島」と日本名で表記をしています。
(拙エントリー10/10/4付:中国が尖閣諸島を日本の領土だと認識していたことを裏付ける史料を参照)
[7] << [9] >>
comments (4)
trackbacks (0)
<< 「アンカー」尖閣問題 中国の真の狙い&人権救済法案 最大の問題点
さっそく安倍さんへのネガティブキャンペーン >>
[0] [top]