【終戦の日2012】外国人から見た日本と日本人(35)

2012.08.14 Tuesday 02:54
くっくり



 うちの家族は三品歯科にはいちいち料金を支払わず、後で三品さんの事務員が集金にくる仕組みになっていた。

■朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 日本政府は昭和13年(1938年)2月に、朝鮮人を対象とした陸軍志願兵制度を設定した。これに則って軍当局が昭和13年3月20日に、400名の朝鮮人志願兵募集を公告したところ、意外にも3500名の志願兵が殺到して、9対1の競争率を示した。3年目の昭和15年には志願者が8万4443名に、翌昭和16年には14万4734名に激増し、募集人員も5500名にまで増やしたという。それでも競争率は26対1になる。日本の軍当局がこれを、朝鮮青年の日本帝国に対する愛国心の発露として大いに喧伝賞賛したのは言うまでもない。

〈中略〉韓国における反日感情というのは、植民地後期においては上流下流の階層を問わず、全く見当たらなかったものである。この反日感情は終戦後、李承晩大統領が個人的偏見と政治的策略のもとに煽りに煽った結果である。

 もしその当時、韓国の一般民衆の間に反日感情が漂っていたとすれば、志願兵応募者の数が多かろうはずもなく、志願者らは周囲の目をおもんぱかったであろう。400名募集に15万名が殺到したとすれば、志願兵はそれこそ朝鮮人大衆の羨望の的であったに違いない。

 僕は中学4年生のころ(1944年)、級友ら7、8人と一緒に、野球道具をかついで汽車に乗って郊外の退渓院に遊びに行ったことがある。ところがそこの運動場に軍服姿の志願兵達が大勢遊びに来ているのに出くわしたので、即席の野球試合となって楽しいひと時を過ごすことができた。彼らの訓練所がその近くにあったのだ。彼らは大変な競争率を突破した秀才達であるが、見かけは何ら変哲もないハツラツとした青年達であった。


[7] << [9] >>
comments (9)
trackbacks (3)


<< 五輪憲章違反の「独島は我が領土」アピールにIOC動く&韓国大統領不法上陸で日本が国際司法裁判所に提訴検討
「アンカー」竹島侵略は韓国が日本と戦争をしたふりをしたことから始まった!日本が今すぐやるべきことは? >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]