子供たちに教えたい森川清治郎と広枝音右衛門
2012.07.30 Monday 19:22
くっくり
台湾南部にある嘉義県東石郷副瀬村の富安宮には、森川清治郎巡査が、「義愛公」という神として祀られています。
森川巡査は1861年生まれ。横浜出身です。
1897年に巡査となって台湾各地で勤務することになりました。
1900年、現在祀られている副瀬村に赴任することとなり、その直前に妻子を日本から招きました。
副瀬村は痩せた土地と浅瀬の海の厳しい生活環境にあり、村民は半農半漁でようやく何とか食べていけるという状況でした。
そして当時の台湾全土がそうであったように副瀬村もまた、マラリア・コレラ・ペストなどの伝染病が猛威をふるう衛生環境の悪さや、匪賊が頻繁に出没するという治安の悪さにも悩まされていました。
森川巡査は、これを滅私奉公の精神で着実に打開して行きました。
◆教育の普及
富安宮内に寺小屋式の私塾を開きました。自費で教師を雇い、時には自らも教鞭を取りました。息子も台湾人と同じく机を並べさせました。優秀者には自費で紙・筆・墨などを贈呈し、息子が受賞した時は除外してその次の者を賞しました。
◆衛生の改善
家の周りに排水溝を掘らせて汚水を流させました。各家庭における飲食物の扱い方などについても、こと懇切丁寧に細かく教えました。
◆農業の改善
農地の改良や農耕技術の改善についても、自ら鍬を持って率先垂範で指導しました。勉学に励む子供だけでなく、良く働く優秀な大人にも自費で農機具を進呈するなどして奨励しました。
本業の警察官の仕事も、いわゆる監視ではなく、慈愛に満ちた激励でした。
病める者には薬を、貧しい者には物品を与え、落ち込む者にはねぎらいの言葉をかけ、村民の生活苦に心から同情し労わったのです。
貧しい民への施しや頑張る者への奨励など惜しみなく自腹を切って出費する一方で、自らの身辺は清貧を貫いていた森川巡査。
そのことが偲ばれる写真が残っています。
1901年、巡査の同僚たちと撮影した写真です(前列左端が森川巡査)。
image[120730-02waraji.jpg]
警察官は当時では珍しい皮のブーツを履くことが許されていたのですが、森川巡査だけは草鞋を履いています。
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