旧日本兵らが支那に寄贈した小学校が一般企業に払い下げられていた
2012.07.23 Monday 01:08
くっくり
〈前略〉日本は北部仏印進駐で鉄道による昆明への武器輸送を止め、開戦後はビルマから英軍を追い払ったあと支那国境を越えて龍陵を落とし、怒江に沿う援蒋ルートの要衝、騰越と拉孟を掌握した。
昭和十九年、米軍指揮下の支那軍がこの要衝奪回に乗り出した。二千人が守る騰越には米軍支給の最新装備で身を固めた四万の支那軍が、千三百人の守備する拉孟にも同数の支那軍が押し寄せた。
拉孟の日本軍は百日間持ちこたえ、支那軍の半分と指揮する米軍将校の何人かを倒したところで力尽きた。最後に慰安所にいた女性のうち朝鮮人四人を山から降ろした。「朝鮮人なら殺されない」という指揮官の判断だった。実際、彼女らは米軍に保護され、拉孟の最期が彼女らによって伝えられた。
日本人女性はそのまま残った。生きて支那人に捕まれば強姦され鼻に針金を通され、局所を棒で刺し抜かれて生きながら地獄を見た通州の二の舞いになるからだ。彼女らは男たちの玉砕を見て服毒して果てた。騰越守備隊もその一週間後に全滅した。
この地には今も八千六十五体の遺骨が眠る。ここで戦い、奇跡的に生還した戦友たちが平成の初めに遺骨の収集と慰霊を北京政府に願い出た。北京は拒絶した。日本軍は悪いと毎日テレビドラマで流している手前もある。
しかし龍陵市長は理解を示した。何らかの友好を、たとえば小学校を建てて寄付するとか形をつくれば私は北京に顔が利く、きっと頷かしてみせますと。
戦友たちは年金まではたいて七百万円集め、龍陵の古戦場、白塔に三階建ての白塔小学校を寄贈した。完成式は一九九八年十一月十三日。校庭正面の国旗掲揚台には「中日人民世代友好」「捐資七百萬日圓建蓋」とあった。戦友たちは小学生のブラスバンドと群舞に歓迎されて日支友好を肌で感じ、涙した。
しかし暫くしてから龍陵市長から「北京は頑なだった」と遺骨収集不許可の知らせを送ってきた。もっとカネを出せば何とかなるともいうが戦友たちにもうその余裕はなかった。
向こうの子供たちが喜んでくれれば無駄ではなかった、というのが老兵たちの思いだったが、それも裏切られたことが十余年ぶりに現地を再訪した戦友の一人によって確認された。白塔小学校は開校式が終わるや即座に小学生は追い出され、掲揚台の文字は消され、建物は何のゆかりもない一般企業に払い下げられてしまった。
支那大使館の一等書記官、李春光が好きにスパイ活動をやっていたことがばれて国に逃げ帰った。筒井農水副大臣に支那検疫局が禁輸している乳製品を「私がとりなして入れさせてやる」と持ちかけ、金を取っていた。
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