昭和21年7月南京・元日本兵の証言&米国高校副読本「虐殺40万人」
2012.07.07 Saturday 02:27
くっくり
塔筋さんの体験は昭和21年7月。南京戦があったのは昭和12年12月ですから、まだ10年も経っていない時期ですよね。
仮に「大虐殺」があったとして、果たして支那の庶民はこのように日本人に優しく接してくれるものでしょうか?
支那の庶民というのは、基本的に他人を信用せず、常に警戒心を持っている人たちです。
天皇という唯一無二の存在を戴いてきた日本とは違い、支那では王朝が次々に交替してきました。
支配者が変われば、財産が没収されたりするのは序の口で、下手すると命も奪われました。一族郎党皆殺しということもよくありました。
だから彼らはとても早耳です。自分の生命や財産を守るため、そうならざるを得なかったのです。
このように耳ざとい人たちですから、もし南京で「大虐殺」があったとしたら、「日本人は酷い奴らだ」「南京は危険だから近寄るな」といった情報が庶民から庶民へと口コミですぐに伝わったはずです。
(その意味でも、「南京陥落直後に人口が増えてるのはおかしい」という指摘はとても理に適ったものです)
ところが、塔筋さん・鈴木さんの両証言からは、「大虐殺」があったような雰囲気は全く読み取れません。
今年2月、名古屋市の河村たかし市長が「通常の戦闘行為はあったが、いわゆる南京事件というのはなかったんじゃないか」と発言し、一部で物議を醸しましたが、河村市長のお父さん(故人)の体験談も同様です。
河村市長のお父さんは歩兵伍長として終戦直後の8月16日、南京に入り、翌年1月までおられました。
同じ部隊の250人のメンバーと郊外の寺に滞在されていたそうです。
南京市では支那の人たちにとても親切に対応されて、温かいもてなしを受けたとのことです。
そして戦後50年の年に、その時の感謝の気持ちとして、戦友たちと1000本の桜を寄贈したそうです。
image[120713-02kawamura.jpg]
ところで、その河村たかし市長が、「WiLL」2012年8月号でこのような話をしています(藤岡信勝教授との対談)。
ちょっと聞き捨てならない内容だったので、こちらも起こしておきます。
河村
2年前のことです。名古屋はロサンゼルスとは姉妹都市なのですが、交流行事でミス二世の方も来日された。お母さんが日本人で、マリリン・モンローに似たえらい別嬪(べっぴん)さんでした(笑)。
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