昭和21年7月南京・元日本兵の証言&米国高校副読本「虐殺40万人」
2012.07.07 Saturday 02:27
くっくり
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「正論」2012年6月号【編集者へ・編集者から】
☆編集者へ=兵庫県たつの市 塔筋昶さん(93歳)
日中戦争のことが報道されるたびに、私には忘れられない想い出が。
かの南京大虐殺があったとされることです。
南京市内のしかも南京埠頭の近辺でのことです。
私は終戦を中国湖南省で迎えまして、混乱の中、南京に辿りついたのが昭和二十一年七月でした。
当時南京は中国国民党政府軍の管理下にありましたが、食糧供給も不足がちで、特に衛生状態が悪くコレラが発生し、集団の中でコレラが無くなるまで帰還目前にしながら、収容所生活でした。
収容所内の野菜不足を補うために、郊外へ出て食べられる野草を採取しようということになり、元気な者三十名ぐらいの引率を私が任されました。
俘虜となってからの久しぶりの外出でした。
しかも武器も持たない丸腰でしたから、中国人の日本軍を見る目を気にしながらの外出でした。
たまたま広い畑で一人の農夫が甘藍(かんらん)(キャベツ)の収穫作業をしておりました。
私は兵隊たちを止めて農夫に片言の中国語で話しかけました。
「この広い畑での作業は大変だろう。私の部下の者で手伝うから、その代わりに捨てる外葉をもらえないか?」と言いますと、農夫はすぐに了解して、外葉は元より少々白い処までも沢山持って帰れと言ってくれましたので、全員で畑に入り収穫から、甘藍の外葉を外して綺麗に整理して台車にまで積み込みました。
訳の分からない野草より甘藍の葉がどれほど有り難かったことか…。
その時向こうの方から、一人の中国人が大きな荷物を担いで来て私に話しかけました。
片言交じりの会話でしたが、話の内容は、「私は日本の兵隊の大人(たいじん)に大変世話になった者です。その兵隊さんから日本の漬物の作り方を教わりました。日本人は漬物がないと一日も暮らせないと聞きました。私のつけた漬物を一樽持って来たから全部持って帰って皆で食べてくれ!」と言って漬物一樽くれました。
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