「文藝春秋」富田メモ
2006.08.11 Friday 02:16
くっくり
●合祀した宮司への言葉
<松平永芳宮司と筑波藤麿宮司の経歴などの説明>
<筑波宮司が合祀すると決めたという主張への秦氏の反論。
もともとA級戦犯の祭神名票を送ったのは厚生省援護局中の旧軍人グループ。靖国側でも総代会のほうから、合祀すべきと要請。総代会は宮司の人事権を持っているので、筑波宮司はノーとは言えず、時期を見てと逃げた。
筑波宮司は昭和40年に突然、鎮霊社という小さな社を靖国神社の境内につくり、白虎隊や西郷隆盛など、靖国神社に入っていない内外の戦没者の霊を祀ることにし、そこにA級戦犯を加えたという当時の靖国神社の神職の証言がある。筑波宮司はそれで済ませるつもりだった。
……というもの>
●松平宮司の理想とは
<松平永芳宮司の経歴をさらに。
秦氏によれば、松平宮司は皇国史観で有名な、東京帝大の平泉澄博士の影響を受けていた。松平宮司は、総代会の最右派と、厚生省援護局の旧軍人グループによって、A級戦犯合祀のために巧みに送り込まれたコマで、昭和天皇もそのことがよくわかっていた。>
秦 徳川義寛元侍従長の聞き書きである『侍従長の遺言』によると、靖国神社がA級戦犯の上奏簿を御所に持ってきたとき、「松岡さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人まで祀るのはおかしい」と反対したら、「そちらの勉強不足だ」と押し返されたという。当時、侍従次長だった徳川氏は天皇のご内意を受けていると考えるのが普通ですが、松平の信念によって「天皇のほうが間違いだ」と突っぱねるわけです。松平宮司は、A級戦犯合祀で天皇が参拝しないのならそれでも構わない、という気持ちだったと思います。当時の靖国神社広報課長だった馬場久夫氏によると、宮内庁の担当者が「そういう方(A級戦犯)をおまつりすると、お上(天皇)のお参りはできませんよ」とくぎを刺したのに強行したのだから。
保阪 昭和天皇にすると、それが『易々と』という怒りにつながったんでしょう。そして、『私あれ以来、参拝していない。それが私の心だ』として、参拝しない理由をはっきり述べています。
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