河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
2012.02.27 Monday 02:23
くっくり
この混乱の最中に、下関に日本軍の別の隊が到着します。
支那兵は彼らを攻撃します。日本兵も応戦します。そこでさらに支那兵の死傷者が出ました。
もちろんこれらは兵士同士の撃ち合いで通常の戦闘行為ですから、国際法に違反はしていません。「虐殺」ではありません。
また、スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・M・ケネディ氏も、「アトランティック・マンスリー」98年4月号への寄稿の中でこのように記しています(「諸君!」98年8月号に塩谷紘氏の訳で転載されたもの)。
【南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。
何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。
さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。
彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。
軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。
12月13日、信じ難いほどの混乱現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった】
民間人の服を奪って民間人を装って逃げる(便衣兵)。自分が生き延びるためには民間人襲撃も友軍殺しも厭わない。
日本人から見れば「卑怯」「野蛮」以外の何物でもない、それが支那兵の実態です。
下っ端の兵だけでなく、将校までもがそうなのです。
このような大混乱があった一方で、同じ12月13日朝の何とものどかな南京の風景を、安全区にいたあるアメリカ人が手紙に残しています。
それは先ほどちらっと紹介したスマイスです。彼は国際委員会の事務局長で、日本軍や日米両大使館への文書発行の責任者でした。
スマイスは、南京陥落の13日の午前6時頃から8時過ぎまで、単独で安全区の中やさらに南の方面を巡回しました。
ところが、これらの場所は北部とは違って人々の混乱はありませんでした。
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