河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱

2012.02.27 Monday 02:23
くっくり


 急いで混乱しながら町を抜け出す騒ぎの中で、少なくとも1台の戦車が邪魔になる中国兵を数知れず下敷きにし、手榴弾で爆破されてやっと止まったのだった。

[中略]日本軍に遭遇することなく安全に町から出る方法が一つだけあった。
 揚子江の北港を通じてで、そこにはジャンクの一群が早いとこ辿り着ける人々を待っていた。
 兵士たちは先ず中山路の大動脈を上り、水門と呼ばれる町の北西の門(●江門)をくぐって、初めて下関郊外の北港に入ることが出来るのだ。

 夜が更けるにつれて、兵士たちは自分たちが渡ることに焦点を絞り、戦車や装備は破棄した。船が少なくなると、様相は凶暴性を帯びた。
 ついには数万人が2、3隻の船を争って、自分が乗ろうと戦い、あるいは空砲を放って他人を除けようとした。
 船員たちは怖がってジャンクやサンパンの船縁にすがりつく兵士の指に斧を振り下ろして押し寄せる暴徒を追い払おうとした。
 川を渡ろうとして数知れぬ人々が亡くなった。門を潜ることも出来ない人々も多かった。

 その夜、中山路で火事が発生し、炎は弾薬の山を舐め尽くし、家々と車両を飲み込んだ。交通に巻き込まれた馬が狼狽して逆立ちとなり、暴徒の混乱を増幅した。
 恐れおののく兵士たちは前方へと波を打ち、その勢いで数百人を炎へ押しやり、さらに数百人をトンネルへ追い込んだが、その多くはそこで他人に踏みつぶされたのだった。
 門が閉じられ、大火災がすぐそこに迫り、暴徒から抜け出せた兵士たちは壁を登って越えよう、と殺到した。数百人が洋服を裂いて紐にし、ベルトやゲートルとなって縄梯子を作った。
 一人、また一人、彼等は胸壁をよじ登り、ライフルや機関銃を欄干から落とした。転がり落ちて死んだ者が多かった】

 アイリス・チャンは、このように支那軍の混乱振りを非常に詳しく書いています。

 南京陥落後に発見されたこの一帯の多数の死体は、日本軍に「虐殺」されたのではなく、統制を失って混乱した末に死んでいった哀れな支那軍兵士のものだったのです。

 そしてこの混乱時、群集の中に一般住民は一人もいなかったことも、この文章で明かされています。チャンはこの混乱した人々を“officers, soldiers(将校、兵士たち)”としか書いていません。

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