河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
2012.02.27 Monday 02:23
くっくり
……さて、支那軍(国民党)トップの蒋介石はというと、何と12月7日の時点ですでに自ら制定した首都・南京から脱出していました。
市民よりもうんと早く、部下や兵士も放置して自分だけ逃げたんですね。
後を任されたのが唐生智ですが、この人は投降勧告に応じませんでした。
そして日本軍は通告通り、10日より総攻撃を開始。
司令官の唐生智は踏ん張ったかと思いきや、何とこの人も12日夜、激戦の最中に逃亡してしまいます。
唐生智は逃げる際、全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令し、また、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令し、兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけました。
さらに、長江への逃げ道になる南京城の●江門(●=手ヘンに邑。以下「●江門」と表記)には督戦隊、すなわち、命令なしに逃げる味方の兵に攻撃を加えて強制的に戦闘を続行させる任務を帯びた部隊を置いていきました。
唐生智は、要するに統制のない無秩序な状況を放置したまま南京城を脱出してしまったのです。
その後も散発的に戦闘は続きましたが、12月13日の朝、南京は陥落しました。
日本軍によるいわゆる「虐殺」は陥落後の13日から行われたとされていますが(東京裁判の判決や南京大虐殺紀念館ではそうなっている)、実はそれ以前の12日午後から夜にかけ、支那兵の脱出路となった中山路から●江門、下関、揚子江に至る地域ですでに惨劇が起きています。
これら南京城北部では無数の支那兵が射殺されたり、あるいは焼死、溺死していたのです。
もちろん日本軍によるものではありません。
唐生智がちゃんと後始末をせずに逃げたことによる支那軍の混乱から発生した惨劇でした。
悪名高いアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」さえも無視できなかったその実情を、同書(ペンギン・ブックス)から引用します。
【退却命令は支那軍を大混乱に陥れた。
将校の中には、市中をめくら滅法走り回り、行きかう者誰にでも出て行くよう言う者がいた。言われた兵士は逃げた。
誰にも、自分の部隊にも言わない将校もいた。代わりに、彼等は自分だけ助けたのである。
彼等の兵士は日本軍と戦い続けた。他の軍服姿の部隊が逃げるのを見て集団脱走と考え、それを止めようと逃走する同輩を何百人も機関銃で倒した。
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