河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
2012.02.27 Monday 02:23
くっくり
以上を踏まえて……
さて実際、南京戦で支那兵らはどういう行動を取ったのでしょうか。
日本軍がいきなりダーッと南京城内に攻めてきて支那軍は大慌て?
支那兵だけでなく一般市民も巻き込まれて多くの死者が出た?
支那兵らも果敢に応戦したんだけどやがて敗走?
……というイメージを持っている人もいるかもしれません(すみません、大昔の私がそうでした(^^ゞ)。
だとしたら、入口の時点で間違ってるんですよね。
事実はこうです。
まず、日本軍は昭和12年12月9日までに南京城を包囲し、松井石根大将は支那軍に対して翌10日正午を期限とする投降勧告を行いました。
いきなり攻撃したんじゃなく、事前に通告したんですね。
戦闘になれば両軍、多大な死傷者が出るでしょうから、できれば平和的に明け渡してほしかった。当然ですね。
そして、この時にはすでに南京市民のほとんどが、在留外国人や一般市民に被害が及ばない「安全区(安全地帯、難民区とも言う)」と呼ばれる中立の地域に避難していました。
というのも、12月8日の時点で南京防衛軍(支那軍)司令官の唐生智から「全ての非戦闘員は国際管理の安全区に集結しなければならない」という布告が出ていたのです。また、特別許可がない限り安全区外への非戦闘員の移動は一切禁じられていました。
「安全区」について補足しておくと……
これを設置したのは南京安全区国際委員会。
この年の11月中旬頃から、アメリカの宣教師を含むルイス・S・C・スマイス、マイナー・シール・ベイツが中心となり、安全区を作って非戦闘員を収容しようという計画が検討され、その実現を目指して結成された組織です。委員長はドイツ人商社員のジョン・ラーベでした。
日本軍が近付いてくるにつれ、南京の行政府の文官までもが逃走したため、以後の南京市民の安全は、彼ら外国人による国際委員会に委ねられていたのです。
image[120226-04cityofnanking.gif]
【当時の南京市及び南京城、城外の地図。「南京大虐殺はウソだ!」様より拝借。「難民区」と書かれてあるのが「安全区」】
[7] << [9] >>
comments (15)
trackbacks (1)
<< 前原政調会長が産経新聞を記者会見から排除
青山繁晴「ニュースの見方」フランスの廃炉原発を視察 >>
[0] [top]